江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年8月20日祈祷会(詩篇14編、善を行う者は一人もいない)

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1.善を行う者は一人もいない

・詩篇14編は詩篇53編とほぼ同じ内容だ。違いは14編が主(ヤハウェ)、53篇が神(エロヒーム)と言う言葉を用いるだけだ。詩篇編集の過程で、同じ詩が別々のところに置かれたものと思われる。

-詩篇14:1「神を知らぬ者は心に言う『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」。

-詩編53:2「神を知らぬ者は心に言う『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」。

・14編の主題は、「神を見失った人間」の腐敗と堕落だ。人々は神の戒めに反する行為をしても天罰が下るわけではなく、思いのままに行為する時に自分の懐に富が蓄積されることに気づいて言う、「神などいない」と。「神を知らぬ者」は愚か者(ナバール)と呼ばれる。ここにあるのは神の存在を否定する無神論ではなく、神は自分たちの行為を罰せられることはないという楽観論だ。裁きなどないと考える時、人の欲と悪のブレーキは利かなくなる。しかし主は天から見ておられると作者は確信する。

-詩篇14:2-3「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。

・人は幸福を求めて生きるが、その幸福が自己の欲望充足と錯覚する時、社会は欲のぶつかり合う戦場となり、強者は弱者を食い物にし、人々の理性はゆがみ、良心は麻痺する。預言者が告発する通りだ。

-エレミヤ5:1「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、私はエルサレムを赦そう」。

・パウロも神なき人間は悪にならざるを得ないことを知り、救いを求めてもだえ苦しんだ。

-ローマ3:10-12「次のように書いてあるとおりです『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」。

 

2.しかし主は悪を放置されない 

・しかし、それが人間本来の姿ではない。己の欲望を満たすために悪を行う者たちも、神がおられることは知っているが、裁きがない故に神を無視する。神はその悪を放置されることはないと詠み手は訴える。

-詩篇14:4-5「悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのように私の民を食らい、主を呼び求めることをしない者よ。そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます」。

・預言者ミカは、神無き世界では強者は弱者を貪り食うと告発した。

-ミカ3:3「彼らはわが民の肉を食らい、皮をはぎ取り、骨を解体して、鍋の中身のように釜の中の肉のように砕く」。

・貧しい人が貪られ、泣く時、その涙を主は知ってくださると詩人は言う。だから希望を持てと。

-詩篇14:6「貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる」。

・14:7節「主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られる時」という言葉が示唆することは、詩人は、「善を行うものが一人もいない故に、神がエルサレムを滅ぼされた」ことを知る捕囚体験者だということだ。彼は廃墟となったエルサレムの神殿で捕囚民の帰還を祈っている。

-詩篇14:7「どうか、イスラエルの救いがシオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られる時、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」。

・ヨハネ黙示録も、迫害の中にあっても、「主は私たちを顧みて下さる」との信仰に生かされていた。

-黙示録21:1-4「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。

・「善を行う者は一人もいない。人が心に思うことは幼い時から悪いことだ。しかしそれにもかかわらず、「あなたを滅ぼすことはもうしない」と主は洪水後にノアに言われた。私たちは神の許容のもとに生きている。

-創世記8:21「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。私は、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい』」。

 

3.詩篇14章の黙想

・「神は弱者の側に立たれる。最後の審判の時、それが明らかにされる」とイエスは言われる。神などいないとして放縦な生活を送る者よ、あなたの悪はいつまでも続かない。何故ならば人は必ず死に、財産を墓場までは持っていくことはできない。人は寄留者なのだ。

-ルカ12:16-21「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った『倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。

・神が最終の審判者であることを知る者と、それを無視する者とは、生き方が異なってくる。イエスがマタイ25章で言われることはそういうことだ。

-マタイ25:40-45「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。・・・はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」。

・弱肉強食、自然淘汰の現代社会にあって、「共に生きる」生活を私たちは目指す。なぜならば神が共にいて下さると信じるゆえだ。ポール・サイモン「明日に架ける橋」の原語は、「Bridge over troubled water」、「荒海に架ける橋」だ。ポール・サイモンは語る「生きることに疲れ果て、みじめな気持ちで涙ぐんでしまう時、その涙を僕が乾かしてあげよう。僕は君の味方だよ、どんなに辛い時でも、頼る友が見つからない時でも。荒れた海に架ける橋のように、僕はこの身を横たえよう」。キリストが私たちの贖いとして自分の身を投げて下さった、神の側から私たちに橋を架けて下さった。だから私たちもこの荒海に、人生の嵐が荒れ狂う海に、橋を架けよう。「明日に架ける橋」は、ベトナム戦争と公民権運動による混迷の70年代にアメリカで生まれ、人種隔離政策が続いていた80年代の南アフリカで歌われ、最近では2001.9.11テロの犠牲者を追悼する集会の中で歌われてきた。こういう歌を書く人がいる限り、この世はサタンの支配する世界にはならない。

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