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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年8月27日祈祷会(詩篇15編、誰が主の前に立つことが出来るのか)

投稿日:2020年8月26日 更新日:

 

 

1.神殿入城の典礼歌としての詩篇15編

 

・詩篇15編は神殿入城の際の典礼歌と思われる。巡礼者が神殿に入場する際、祭司は「あなたは神殿に入るにふさわしいか」と問いかける。幕屋は神殿、聖なる山はシオン(エルサレム)である。

-詩篇15:1「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」。

・それに対して巡礼者は答える「私は義を行い、心の真実な者」と。

-詩篇15:2「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉がある(人)」

・主の前にふさわしい人とは、他者に「中傷や嘲りをしない人」だと詩人は語る。

-詩篇15:3「舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人」。

・共同体においては、それは「主の目に適わない人を退け、主を畏れる人を尊ぶ」という行為になる。

-詩篇15:4「主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人」。

・社会生活においては、「利息を取らず、賄賂を受け取らない」という行為になる。

-詩篇15:5「金を貸しても利息を取らず、賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人」。

・当時、利息を取り、賄賂を受けることは、同胞からの搾取と考えられた。

-申命記23:20-21「同胞には利子を付けて貸してはならない・・・それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである」。

・創世記において、正しき者とは、「全き人、神と共に歩む人」だと言われている。

-創世記6:9「ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」。

-創世記17:1「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい』。

・後の時代のイザヤは、正しい人とは、「正義に歩む人、他者をむさぼらない人、謀略に参加しない人」だと定義づけた。

-イザヤ33:14-16「シオンで罪人は恐れ、神を無視する者はおののきに捕らえられた。我々のうち、誰が焼き尽くす火の中にとどまりえようか。我々のうち、誰がとこしえに燃える炉の中にとどまりえようか。正義に歩み、正しいことを語り、虐げによる利益を退け、手を振って賄賂を拒み、耳をふさいで流血の謀を聞かず、目を閉じて悪を見ようとしない者。このような人は、高い所に住む。その高い塔は堅固な岩。彼の糧は備えられ、水は絶えることがない」。

 

2.正しさを倫理化した時、罪が生じる

 

・この神殿入場儀式を文字通り実行した時、誰も神殿に入ることは出来ない。正しい者は一人もいないからだ。

-詩篇14:2-3「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。一人もいない」。

・外形的、形式的に戒めを守る者は、「自分こそ義人だ」と宣言した。イエスはこのようなファリサイ人たちを「偽善者」と呼ばれた。

-ルカ18:10-12「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」

・旧約の預言者もこのような偽善を激しく攻撃した。神の義とは他者に対する正義なのだ。

-イザヤ58:6-8「私の選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出であなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る」。

・戒めは倫理化してはいけない。それでもなおかつ、聞かなければいけない。神の民としての責任からだ。

-レビ11:45「私はあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。私は聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」。

・新約においても同じ戒めが語られる。私たちは弱く、戒めを守れない存在であっても、それを目指すことに意味がある。

-第一ペテロ1:15-16「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。私は聖なる者だからである』と書いてあるからです」。

・アメリカの神学者ウィリモンはその著「牧師」で、「牧師には高い倫理要求が課せられる」と述べる。

-ウィリモン「牧師」から「教会の会衆が、牧師が公に告知している信仰を、少なくとも牧師自らが体現するように努めるべきだと期待しているが、それは全く正しい期待である」。

・その時、その人の立つ基盤は磐石なものとなる。

-詩篇15:5b「これらのことを守る人はとこしえに揺らぐことがないでしょう」。

・人間存在は揺らぐが、神の存在は揺らがない。だから神の言葉の上に(岩の上に)、家を建てるのだ。

-マタイ7:24-25「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」。

 

3.新約時代の私たちはこの詩篇をどう読むか

 

・詩篇15編は、神の前に立つ者は、「自分を吟味し、神の前に悔い改め、聖なる者であれ」との声を聴く。私たちは毎主日の礼拝にこのような覚悟で臨んでいるだろうか。ヨハネ8章姦淫の女の記事を振り返り、検証してみたい

-イエスの前に姦通を犯した女が連れて来られ、人々は「この様な女は石で打ち殺せ」とモーセは命じていると迫った。それに対してイエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がこの女に石を投げよ」と答えられると、誰もいなくなった。イエスは女に語られる「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(ヨハネ8:10)。女が「主よ、誰も」と答えると、イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(10:11)。

・「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が女に石を投げよ」と問われる。私たちはだれも「罪を犯したことはない」ということが出来ない。だから「私たちも石を投げない」。しかし、「日本人の場合はもしかしたら石を投げたのではないか」、日本語の罪はCrime、犯罪であり、法を犯さない限り、日本人は自分の罪を認めない。日本人の行動規範の下にあるのは、神の目ではなく世間の目であり、他人がどう思うかが基準となり、誰かが投げ始めれば自分も石を投げる。そして他者攻撃によって自分の正しさを確認する。神がない人、Sinの罪認識がない人は、自分を振り返ることなく、他者を攻撃する。その時、私たちはどうするのか。イエスが為されたように、女と一緒に石を受ける。

・「私もあなたを罪に定めない」とイエスは言われた。私たちは教会の礼拝に集まって、主イエスに出会い、赦しと恵みを受ける。そして「行きなさい」と言われる。礼拝が終わると私たちは再び世俗の生活の場所に派遣されて行く。そこは世の罪と汚れにまみれた場所、私たちもかつてはその中の悪にまみれていた。その場所へ、「これからは、もう罪を犯してはならない」というイエスの御言葉を与えられて、私たちは遣わされていく。それが礼拝の意味ではないだろうか。

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