2019年5月2日祈祷会(サムエル記下14章、人を赦せないことから生まれる罪)
1. アブサロムを赦せないダビデ
・アブサロムは妹タマルを辱めた異母兄アムノンを憎み、これを殺して母の故郷ゲシュルに逃げる。父ダビデは長男アムノンの死を悲しみ、三男アブサロムを赦すことが出来ない。次男は夭折しており、アブサロムが次の王位継承者になる。王と王位第一継承者の争いに苦慮した将軍ヨアブが和解の労をとる。
−サムエル記下14:1-3「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブサロムに向かっていることを悟り、テコアに使いを送って一人の知恵のある女を呼び寄せ、彼女に言った『喪を装ってほしい。喪服を着、化粧もせず、長い間死者のために喪に服しているように装うのだ。そして王のもとに行き、こう語りなさい』。ヨアブは語るべき言葉を彼女に与えた」。
・女はダビデの前で、「兄を殺した弟を引き渡せと要求する親族の手から息子を守ってほしい」とダビデに訴える。
−サムエル記下14:5-8「私は実はやもめでございます。夫は亡くなりました。はしためには二人の息子がおりました。ところが二人は畑でいさかいを起こし、間に入って助けてくれる者もなく、一人がもう一人を打ち殺してしまいました。その上、一族の者が皆、このはしためを責めて、『兄弟殺しを引き渡せ。殺した兄弟の命の償いに彼を殺し、跡継ぎも断とう』と申すのです。はしために残された火種を消し、夫の名も跡継ぎも地上に残させまいとしています」。
・女は「一人の息子を失ったのに、もう一人の息子をも失おうとしている」とダビデに訴え、ダビデは女に同情し、息子を助けようと申し出る。しかし、女の本意はアブサロムの赦しにあり、女はアブサロムのことを語り始める。
−サムエル記下14:13-14「王様御自身、追放された方を連れ戻そうとなさいません。王様の今回の御判断によるなら、王様は責められることになります。私たちは皆、死ぬべき者、地に流されれば、再び集めることのできない水のようなものでございます。神は、追放された者が神からも追放されたままになることをお望みになりません。そうならないように取り計らってくださいます」。
・女はダビデに「人は死ぬゆえに残された人生は貴重である。不和を残したままで死んではいけない、アブサロムを赦しなさい」と言う。ここでダビデは女の背後にヨアブがいることに気づき、アブサロムを連れ戻す許可を与える。
−サムエル記下14:21「王はヨアブに言った『よかろう、そうしよう。あの若者、アブサロムを連れ戻すがよい』」。
2.赦せないダビデの行為が新しい罪を生む
・しかし、ダビデは心の中では愛する子アムノンを殺したアブサロムを赦すことが出来ない。そのため、アブサロムが戻っても2年間彼に会わなかった。
−サムエル記下14:23-24「ヨアブは立ってゲシュルに向かい、アブサロムをエルサレムに連れ帰った。だが、王は言った『自分の家に向かわせよ。私の前に出てはならない』。アブサロムは自分の家に向かい、王の前には出なかった」。
・このダビデの処置がアブサロムの心を荒廃させる。それ以上の仲介をしないヨアブに怒ったアブサロムは、ヨアブの畑に火をつけて、彼の注意を呼び起こす。アブサロムは自分のことしか考えない男になっていた。
−サムエル記下14:28-30「アブサロムはエルサレムで二年間過ごしたが、王の前に出られなかった。アブサロムは、ヨアブを王のもとへの使者に頼もうとして人をやったが、ヨアブは来ようとせず、二度目の使いにも来ようとしなかった。アブサロムは部下に命じた『見よ、ヨアブの地所は私の地所の隣で、そこに大麦の畑がある。行ってそこに火を放て』。アブサロムの部下はその地所に火を放った」。
・ヨアブはアブサロムの苛立ちを見て、ダビデに執り成し、ダビデはアブサロムと会った。
−サムエル記下14:31-33「アブサロムはヨアブに言った『私はお前に来てもらおうと使いをやった。お前を王のもとに送って、何のために私はゲシュルから帰って来たのでしょうか、これではゲシュルにいた方がよかったのですと伝えてもらいたかったのだ。王に会いたい。私に罪があるなら、死刑にするがよい』。ヨアブは王のもとに行って報告した。王はアブサロムを呼び寄せ、アブサロムは王の前に出てひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした」。
・表面的には和解がなされたが、本心からではない。このダビデの行為がやがてアブサロムに反乱を決意させ、アブサロムはダビデ軍に敗れて死ぬ。兄を殺した弟を赦せないゆえに、ダビデは二人の息子とも失ってしまった。
−サムエル記下19:1「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った「私の息子アブサロムよ、私の息子よ。私の息子アブサロムよ、私がお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、私の息子よ」。
3.ダビデが出来なかった赦しの意味を考える
・私たちは人を赦せず、その罪が新しい罪を生んでいく。ダビデは自分が赦されたのに、アブサロムを赦せなかった。私たちも人を赦せない。赦せるとしたら、私たちがキリストの十字架を仰いだ時だけだ。
−ガラテヤ5:24「キリスト・イエスの者となった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。
・映画「レ・ミゼラブル」を見た、あるキリスト者が映画の主題は「赦し」だったと書いている。
−レ・ミゼラブルの感想から「この映画の中心にはジョン・バルジャンに対するミリエル司教の赦しと受容、それに対するバルジャンの回心と、彼が後の人生を無償の愛と共に生きるその姿にあります。そして、彼の人生を変えたのは神父の赦しの背後にあるキリストの十字架の愛であったということ、それがこの映画の根底に流れています。それゆえに、この映画はイエス・キリストが人間になしてくださったことに対する、クリスマスの日をキリストに贈られた人からの賛歌ではないかと思うのです。人がジョン・バルジャンの生き様に心が揺さぶられるのなら、そのジョン・バルジャンの生き方を変えたイエス・キリストの生涯というものがどれだけ私たちにとって大切なものであるかということ、自分はまだこのキリストの生き様を十分に伝えきれていないのだと反省しました」。
・キリストの赦しを如実に伝える物語がヨハネ8章の姦淫の女の記事だ。姦淫の罪を犯したとしてイエスの前に連れてこられた女性にイエスは語られる「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)。まず罪の赦しがあり、その後に悔い改めを求める言葉がある。これが福音だ。ここに、人を滅ぼすための裁きではなく、人を生かすための裁きが為されている。「罪人は罪人のままで神の恵みを受ける」、神の側から無条件の赦しを差し出された故に、私たちは洗礼を受ける。
・無条件の赦しを伝えるこの物語(ヨハネ7:53-8:11)をより詳しく見てみる。この物語は聖書では〔 〕の中に書かれている。後代の加筆と見られているが、年代的に古く重要である箇所を示すとされる。つまり、ヨハネ福音書の古い写本の中には記載がなく、後代の加筆の可能性が高く、資料的な問題があるという記号だ。伝承そのものは古く、イエスに由来することは争いがないのに、なぜか。最初に聖書を編纂した人々はこの古い伝承を受け入れなかった。それは罪を犯したにもかかわらず、その罪を無条件に赦すイエスの態度に、教会の人々が戸惑ったからと思える。
・「十二使徒の教訓」では「犯してはいけない罪」が列挙されているが、最初に来るのが殺人、二番目は姦淫だ(十二使徒の教訓2:2)。人々は考えた「姦淫のような重い罪を犯した者を無条件で赦せば、教会の秩序は保てない。いくらイエスの言葉だからと言って受け入れがたい」。その結果、この記事が当初は福音書に編入されず、後になって福音書の一部として、承認されたと言われている。聖書学者はこの記事は当初はルカ21:38にあったと考える。
−ルカ21:38「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」。
−ヨハネ7:53-8:2「そして人々はそれぞれ家に帰った。イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた」。
・イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない・・・これからは、もう罪を犯してはならない」、この言葉は無条件の赦しではない。正確に訳せば「もうあなたは罪を犯すことができなくなった」と意味になる。裁きは為された、しかし処罰が猶予された。罪を犯したのに赦されるとは、刑の執行が猶予されていることを示す。ここに、人を滅ぼすための裁きではなく、人を生かすための裁きが為されている。女を律法通り石打の刑で殺した時、一人の命が失われ、そこには何の良いものも生まれない。しかし、女に対する処罰を猶予することによって、女は生まれ変わり、新しい人生を生き始め、この女から命の水があふれ出し、周囲の人を潤し始める。ここに本当の罪の裁きがある。もしダビデがこの裁きを為すことが出来れば、アムノンやアブサロムの命は失われることはなかったかもしれない。