2019年6月13日祈祷会(サムエル記下20章、ダビデの裏面史)
1. 専制王政への批判
・ダビデはアブサロム軍を破り、エルサレムに凱旋するが、すぐにシェバの反乱が起こる。背景には出身のユダ族を優遇するダビデに対する、イスラエル諸部族の反感があった。シェバは「ダビデと分け合うものは私たちにはない」と主張し、イスラエル人も同調してダビデの下から離れた。
―サムエル記下20:1-2「ベニヤミン人ビクリの息子でシェバという名のならず者が居合わせた。彼は角笛を吹き鳴らして言った『我々にはダビデと分け合うものはない。エッサイの子と共にする嗣業はない。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ』。イスラエルの人々は皆ダビデを離れ、ビクリの息子シェバに従った」。
・ダビデはシェバを撃つために、新しく任命した司令官アマサに軍の召集を命じるが、アマサは予定の日になっても戻らない。アマサはシェバ追討に消極的であったのだろう。業を煮やしたダビデは近衛軍の将軍アビシャイに討伐軍の編成を命じる。ダビデの子アブサロムを殺害したヨアブは疎んじられている。
―サムエル記下20:4-7「アマサはユダの人々を動員するために出て行ったが、定められた期日に戻らなかった。ダビデはアビシャイに言った『我々にとってビクリの子シェバはアブサロム以上に危険だ。シェバが砦の町々を見つけて我々の目から隠れることがないように、お前は主君の家臣を率いて彼を追跡しなさい』。ヨアブの兵、クレタ人とペレティ人、および勇士の全員が彼に従ってエルサレムを出発し、ビクリの息子シェバを追跡した」。
・実際の指揮を取ったのは、弟アビシャイではなく兄ヨアブであった。アマサはダビデに忠実ではなかったので、ヨアブはアマサを見出し、これを殺した。
―サムエル記下20:8-10「彼らがギブオンの大石の所にさしかかったとき、アマサが彼らの前に現れた・・・ヨアブはアマサに声をかけ・・・剣でアマサの下腹を突き刺した。はらわたが地に流れ出て、二度突くまでもなくアマサは死んだ。ヨアブと弟アビシャイはビクリの息子シェバの追跡を続けた」。
・シェバの反乱はイスラエル10部族まで広がらず、最終的に従ったのはシェバの同族だけであった。ヨアブ軍はイスラエルの北端アベルまでシェバ軍を追い詰め、シェバを殺した。反乱は終わった。
―サムエル記下20:22「女は・・・ビクリの子シェバの首を切り落とさせ、ヨアブに向けてそれを投げ落とした。ヨアブは角笛を吹き鳴らし、兵はこの町からそれぞれの天幕に散って行った。ヨアブはエルサレムの王のもとへ戻った」。
・ダビデはヨアブを権力から外そうとしたが、ヨアブは新司令官アマサを殺し、さらに近衛隊長アビシャイを制し、ダビデの与り知らぬところで、ダビデの全軍を掌握していく。ヨアブは、シェバの首を得、実質的にイスラエル全軍の長となり、ダビデの下へと戻っていった。ダビデは自分が命令したアビシャイに代わって、ビクリの子シェバの首を携えてきたヨアブを迎えた。ヨアブは、ことごとく自分の命令に背き、アブネルを殺し、アブサロムを殺し、さらにアマサまで殺めていた。そして、ダビデが認めた軍団の長を出し抜いて、いまや全軍を掌握している。ダビデは、新たな脅威に身震いする思いであったろう。ダビデは後に、ソロモンに「ヨアブの白髪頭を安らかによみに下らせてはならない」(1列王2:6)と命じている。ヨアブがダビデを助け、王国を救ったのに間違いはなかったが、ダビデの軍隊を指揮する将軍は、ダビデの命令に全く服従する者ではなかったのである。
2.サムエル記下20章の伝えるもの
・シェバの乱は、個人の反乱ではなく、専制王政に対する反乱であった。アブサロムはダビデの政治を独裁と批判し(15:2-6)、シェバは「我々のための割当地がない」と叫んだ(20:1)。20:23以下にダビデ政権の閣僚名簿があるが、軍の指揮官は国民軍ではなく近衛軍のヨアブであり、人民を使役するための労役監督官まで置かれている。
―サムエル記下20:23-26「ヨアブはイスラエル全軍の司令官。ヨヤダの子ベナヤはクレタ人とペレティ人の監督官。アドラムは労役の監督官。アヒルドの子ヨシャファトは補佐官。シェワは書記官。ツァドクとアビアタルは祭司。ヤイル人イラもダビデの祭司」。
・神の委託を受けて王になった者は、最初は謙虚にその業を行う。サウルも最初は「私はイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者です」と語ったが、やがては専制君主になった。ダビデもいつの間にか、王国に仕える者から、王国を貪る者になる。サムエルはその危険を繰り返し民に警告した。
―サムエル記上8:17-18「(王は)あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」。
3.サムエル記下11−20章の意義(福井誠・一日一生から)
・私たちの人生に起こるすべての出来事は機会となる。人はその機会に様々な形で乗じていく。シェバは、部族的な対立にあって、自ら昇進する機会を得た。シェバはベニヤミン人であり、彼はサウルの友と、ダビデの敵から広く支持を得られることになった。しかしその機会は三日天下で終わってしまった。
・アマサは、ダビデに起用され、ダビデの軍団の長として勝利を得る機会を得た。しかし、アマサは、ぐずぐずし、その機会を逃すのみならず、彼の失脚を狙っていたヨアブに殺されてしまう。最も器用に立ち回り、最も自らの思いを達成する機会を自ら作り出したのはヨアブである。ヨアブは、自らの地位を取り戻し、イスラエルの全軍を自らの指揮下に置いた。
・ダビデの生涯は、チャンスを生かし、ピンチをもチャンスにし続けた生涯であったが、最後はチャンスを台無しにし、11-20章の汚点を残した生涯でもあった。多くの注解書は、サムエル記下11-20章は、おそらく、ダビデが最も抹殺したい過去として扱う。ダビデの王としての権威は、深いダメージを受け、もはや王国の支配権は実質的にダビデから離れている。20章23-26節の王国の役人の名簿は、サムエル記下8:15-18の初期の王国の役人の名簿と比較して読むと興味深い。裁判官の中にダビデはもはや名前が記載されていない。ダビデの息子たちももはや祭司ではない。さらに、役務長官という新しい部署が設立され、いわゆる官僚制が整えられている。ある意味で、王は実務に携わらないお飾りになっている。
・11-20章は、本来の王の年代記であればそれらは決して収録されない出来事である。しかし聖書がそれをあえて収録することで、現代の読者が感じることは、ダビデは、王として復帰することはできたが、国の統治力を維持することはできなかった、それはヨアブに掌握された、ということである。しかしそれが単に教訓的なメッセージにならず、霊的なメッセージとして語りかけてくる。聖書全体は、私たちの生活に深くかかわるメッセージを語りかけている。それは単に何が有益で何をすべきか、という地上的な営みについてのメッセージではなく、本質的に、神と人がどうあるべきかを語るものなのである。地上的な営みを超えた、人生観を持つ者でありたい。