2019年11月28日祈祷会(列王記下1章、王の前に立つ預言者)

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1.バアルの託宣を求める王への神の怒り

 

・アハブはアラムとの戦陣で死に、モアブはイスラエルに反旗を翻す。アハブの子アハズヤが王位についたが、彼は王宮の屋上から落ち、病気になった。アハズヤは八方ふさがりの中で救いを求めて、バアルの神に使者を送る。

-列王記下1:1-2「アハブの死後、モアブはイスラエルに反旗を翻した。アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して『エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか尋ねよ』と命じた」。

・バアル・ゼブブ=蝿の王の意である。蝿によって疫病が運ばれるので、当時の人々は、災いをもたらす神として恐れた(注:マルコ3:22他に出てくる「悪霊どものかしらベルゼブル」の語源がバアル・ゼブブである)。しかし、主はエリヤを召して言われた「イスラエルには神がいないとアハズヤは言うのか。何故偶像の神を求めるのか」と。

-列王記下1:3-4「主の御使いはティシュベ人エリヤにこう告げた『立て、上って行ってサマリアの王の使者に会って言え。あなたたちはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして出かけているが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。それゆえ主はこう言われる。あなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ』。エリヤは出て行った」。

・王の使者はエリヤの言葉を王に伝える。王はエリヤの言葉に不快を覚え、エリヤを捕らえるために軍隊を送る。主は火を送って、この軍隊を滅ぼされる。

-列王記下1:9-10「アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人と共にエリヤのもとに遣わした。隊長がエリヤのもとに上って行くと、エリヤは山の頂に座っていた。隊長が『神の人よ、王が、降りて来なさいと命じておられます』と言うと、エリヤは五十人隊の長に答えて『私が神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう』と言った。すると天から火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした」。

・次に送られた50人も同じ運命に会う。預言者は王の下に立つのではなく、神の言葉を預かる故に王の上に立つ。三度目の使者は、預言者に懇願し、預言者はその懇願に応じて、王の前に姿を現す。

-列王記下1:13-14「王は更に三人目の五十人隊の長とその部下五十人を遣わした。三人目の五十人隊の長は上って来て、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った『神の人よ、どうか私の命と、あなたの僕であるこの五十人の命を助けてください。御覧のように、天から火が降って来て、先の二人の五十人隊の長と彼らの部下五十人を焼き尽くしました。どうか、私の命を助けてください』」。

 

2.王を恐れるなといわれる主

 

・エリヤは立ち上がってアハズヤ王のところに行き、神の言葉を伝える。

-列王記下1:16-17「(エリヤは)王にこう告げた『主はこう言われる。あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして使者を遣わしたが、それはイスラエルにその言葉を求めることのできる神はいないということか。それゆえあなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ』。王はエリヤが告げた主の言葉どおりに死んで、ヨラムが彼に代わって王となった・・・アハズヤには息子がなかったからである」。

・物語は、バビロンに捕囚となっている民に対しても語られている。捕囚の民は、自分たちの神がバビロニヤの神に破れたと思い、バビロニヤの偶像神の言葉を聴こうとしている。それは「アハズヤの愚かさ」と同じだと記者は語っている。

-イザヤ59:1-2「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。

・神の言葉は、王の言葉に勝る。言うのは易しいが、行うのは難しい。神社礼拝を拒否した韓国のキリスト者は捕らえられ、殺されていったが、日本のキリスト者の大半は戦時中、靖国神社に奉献した。復活のイエスに出会った使徒たちは、「イエスこそ神の子だ」と宣教を始め、捕らえられる。ユダヤ議会は「イエスの名によって語るな」と脅すが、使徒たちは「私たちは神の言葉に従う」として、拒絶した。

-使徒言行録4:19-20「ペトロとヨハネは答えた『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです』」。

・ルターが皇帝カール5世の法廷に呼び出されて、証言の撤回を求められた時、彼は「私は語らざるをえない」とこれを拒否した。私たちが権力者の前に呼び出された時、同じ言葉が言えるだろうか。

-1521年 4月17日ウォルムス国会でのルターの言葉「私は教皇と公会議の権威は認めません。なぜなら、それらは互いに矛盾しているからです。・・・私の良心は神のみことばにとらわれているのです。私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら、良心にそむくことは正しくないし、安全でもないからです。これよりほかに私はどうすることもできない。ここに私は立つ。神よ、私を助けたまえ。アーメン」。

 

3.王と預言者のありかたについて

 

・イスラエルにおいて王は神の委託を受けて、民を治める。その王のあるべき姿を申命記は記す。王は「律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」。申命記後の、ヨシュア記から列王記にかけての、イスラエルの歴史を語る書は「申命記史書」と呼ばれるが、それは申命記のこの考え方を基準として歴史を記述しているからだ。そこに沢山の王たちのことが語られており、「良い王と悪い王」とに色分けされる。良い王とは、律法に従いそれを行なって歩んだ人である。たとえ政治的軍事的に力があり、国を富ませたとしても、神の言葉に従い律法を大切にすることを怠った王は悪い王とされている。サムエル記や列王記に語られている良い王と悪い王の判断の基準がここに示されている。

-申命記17:16-20「王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない・・・王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」。

・同じ申命記に預言者に関わる言葉がある。

-申命記18:15-19「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度と私の神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。主はそのとき私に言われた。「彼らの言うことはもっともである。私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口に私の言葉を授ける。彼は私が命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼が私の名によって私の言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、私はその責任を追及する」。

・民は「ホレブ(シナイ山)」で、神と直接顔を合わせることを恐れた。罪ある人間が神と直接顔を合わせたら生きてはいられない、死ぬ他はないからだ。そのため主なる神はモーセを、神と民との間に立ち、御言葉を授けられてそれを民に伝える者として立て、「預言者」の働きを用いて民を導くこととされた。預言者は、神の御言葉を受けてそれを民に伝える人であり、その預言者に聞き従うことが神に聞き従うことなのである。預言者によって語られる神の言葉をしっかり聞いて従うことによって、イスラエルは神の民として歩むことができる、ということが教えられている。

・王は統治し、預言者はその統治を神の戒めの視点から見守る。そこに預言者の「世の光、地の塩」としての役割がある。それは現代においても同じである。

-カー・バルト・キリスト者共同体と市民共同体から「市民共同体という大きな外円の中に、キリスト者共同体という内円があり、教会は社会の庇護のもとに、世の光としての役割を与えられている存在である。社会も教会も同一の同心円の中にあるから教会は外円の社会を尊重するが、同時に自分たちが内円であることを深く認識する。そして『教会とても、やはり国家と同じく、いまだ救われざる世界にある』を認識し、教会は『市民共同体の只中にあって、神の国を想起させる』役割を持つことを覚える。教会は神の国の宣教という本来の役割を果たすことによってその使命を全うする。教会は神に奉仕することによって人間に奉仕する」。

・植村正久はそれを、教会は“社会の木鐸である”と語り直す。

-植村正久の論文から「福音の伝播が、教会を社会の木鐸にする。聖書をそのテキストの文脈の中で正しく読み、かつ置かれた今の時代の文脈の中でその使信を再解釈し、祈って決断する。そのことにより、キリスト者は地の塩、世の光とされる。一律的なキリスト教倫理はありえないのではないか」。

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