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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年1月17日祈祷会(サムエル記上26章、神の歴史への信仰)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

2019年1月17日祈祷会(サムエル記上26章、神の歴史への信仰)

1.サウルを殺さないダビデ

・サムエル記26章は24章と同じ事件を別の角度から記述する。おそらく、二つの異なった伝承があったのであろう。
−サムエル記上24:3-7「サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」の付近に向かった・・・洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。ダビデの兵は言った『主があなたに、私はあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよいと約束されたのは、この時のことです』・・・ダビデは兵に言った『私の主君であり、主が油を注がれた方に、私が手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ』」。
−サムエル記上26:2-9「サウルは立ってイスラエルの精鋭三千を率い、ジフの荒れ野に下って行き、ダビデをジフの荒れ野で捜した・・・ダビデとアビシャイは夜になって兵士に近寄った。サウルは幕営の中に横になって眠り込んでおり、彼の槍はその枕もとの地面に突き刺してあった・・・アビシャイはダビデに言った『神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、私に槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます』。ダビデはアビシャイに言った『殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない』」。
・中心になる言葉は「主が油を注がれた方に手をかけるな」である。サウルへの報復は主に委ねる、歴史を形成するのは人ではなく、神であるとの信仰だ(歴史=History=His story=神の歴史である)。
−サムエル記上26:10-11「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、私が手をかけることを主は決してお許しにならない」。
・24章と同じようにダビデはサウルに、「あなたに手をかけなかった」と呼びかける。
−サムエル記上26:19-20「わが主君、王よ。僕の言葉をお聞きください。もし、王が私に対して憤られるように仕向けられたのが主であるなら、どうか、主が献げ物によってなだめられますように。もし、人間であるなら、主の御前に彼らが呪われますように。彼らは、『行け、他の神々に仕えよ』と言って、この日、主がお与えくださった嗣業の地から私を追い払うのです。どうか、私の血が主の御前を遠く離れた地で流されませんように」。

2.主が行為されるまでの忍耐

・24章と同じようにサウルは悔い改める。しかし、この悔い改めが一時的なものであることをダビデは知るゆえに、それに期待しない。ダビデはサウルの下には帰らなかった。
−サムエル記上26:21-24「サウルは言った『私が誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日私の命を尊んでくれたお前に、私は二度と危害を加えようとはしない。私は愚かであった。大きな過ちを犯した』。ダビデは答えた『王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせてください。・・・今日、主は私の手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手を書けることを私は望みませんでした。今日、私があなたの命を大切にしたように、主も私の命を大切にされ、あらゆる苦難から私を救ってくださいますように』」。
・この後、ダビデはサウルからの追跡を逃れるために、イスラエルを出て、敵陣であるペリシテ人の地に避難して、そこに1年半滞在した。主に自分の人生を委ねることは忍耐を必要とする。
−サムエル記上27:1「ダビデは心に思った『このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域で私を捜すことを断念するだろう。こうして私は彼の手から逃れることが出来る』」。
・私たちにもこの忍耐が必要だ。見える現実は暗く、約束がいつ成就するかを見通せない。その中で神に信頼していく。
−第二ペテロ1:18-19「私たちは、聖なる山にイエスといた時、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、私たちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」。
・今はわからなくともわかるときが来る。希望が砕かれることはない。だから待とう。
−第一コリント13:12「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。
・主が共におられれば、耐えられない苦難は与えられない。主はダビデへの約束を果たされたではないか。
−第一コリント10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。

3.サムエル記上26章の黙想(信じられない状況下で信じて行くことの意味)

・ヨセル・ラコーバーの信仰
−1939年ドイツ軍はポーランドに侵攻し、ワルシャワ市内にいたユダヤ人50万人はユダヤ人居住区に押し込められ、周囲と隔離された。当初はユダヤ人の隔離と強制労働が中心だったが、やがて民族絶滅に方針が変わり、ゲットーから大勢の住人が絶滅収容所に移送されて行く。「このまま死を待つよりは戦おう」としてゲットーのユダヤ人たちは1943年叛乱を企てるが、ドイツ軍に制圧され、住民は次々に殺されていく。その中の一人がヨセル・ラコーバーだ。彼の妻と子どもたちは既に殺され、ヨセルだけが残された。−彼は戦火の中で手記を書き、それをガラス瓶に入れ、レンガ石の裏に隠した。戦後、その手記が発見され、出版される。その中で彼は書く「神は彼の顔を世界から隠した。彼は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された。しかし私は神を信じる」(Yosl Rakover Talks to God by Zvi Kolitz)。「希望を未来に託して現在を生きる」、「自分たちの苦難と信仰を紙に書き残し、将来の読者に届ける」、この信仰こそ聖書の信仰であり、この希望が神の国を招く。
・エマニュエル・レヴィナスの信仰
−第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人たちは「神に見捨てられた」という思いをひきずっていた。「なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか」、若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出て来た。その時、ユダヤ教のラビ、エマニュエル・レヴィナスは、それは「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語った。
−レヴィナス「困難な自由」から「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できる者』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである」(レヴィナス「困難な自由」内田樹訳)。
・「成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとる」。紀元前3世紀のコヘレトは語った。「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる」(コヘレト7:20-21)。今為すべきことを為せ、人が何を言おうと良いではないかとコヘレトは励す。
*ホロコースト:元来はユダヤ教の宗教用語にあたる「燔祭」(en)(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で、のち転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった。英語では、ユダヤ人虐殺に対しては定冠詞をつけて固有名詞 (The Holocaust) とし、その他の用法を普通名詞 (holocaust) として区別している。ユダヤ人たちは自分たちを「神に捧げられた全焼の生贄」として理解し、ナチスによる大虐殺を「ホロコースト」と呼んだ。
・マザーテレサの信仰
「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなくし善を行い続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けないさい。助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく助け続けなさい。あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい」。

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