1.ハンナの祈り
・ハンナは子が乳離れするまで手元に置き、乳離れした時、子を献げる為に、シロの神殿に連れて行き、祭司エリに預けた。その時、ハンナが歌った讃美がサムエル2章の「ハンナの賛歌」である。不妊の女ハンナは主に祈って子サムエルを与えられ、喜びの歌を歌う。前半は、不妊の女という辱めが除かれた祝福、自分を苦しめた二番目の妻ペニナを見返せた喜びを歌う。
−サムエル記上2:1-5「主にあって私の心は喜び、主にあって私は角を高く上げる。私は敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う・・・驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか・・・子のない女は七人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える」。
・ハンナの祈りは私たちの祈りと同じだ。自分の思いしか祈れない。「子を与えてください、子を与えて私の恥をそそいで下さい。子を産んで憎いペニナを見返してやりたいのです」。神はこのような、わがままな祈りさえ聞かれる。そしてわがままな祈りが聞かれた者は、やがて自分の思いを離れて、主に感謝するようになる。個人の喜びから始まった歌が、やがて全てを支配され、貧しい者を省み、弱い者を立ち上がらせる主の讃美へと導かれていく。主は人間の利己的思いさえも聖化され、良き事のために用いられる。
−サムエル記上2:6-8「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた」。
・ハンナは子に恵まれず、悲しみを強いられた。主が「ハンナの胎を閉ざしておられた」(1:5)からだ。不妊の女性であるからこそ、子が与えられるように深く祈った。苦労もなく子が与えられたならば、この祈りは生まれず、この祈りがなければサムエルは生まれなかった。自分の限界を知らされたからこそ、ハンナは主により頼み、主は答えて下さった。ハンナの涙が偉大な預言者を産み、ハンナの涙が後世まで人々が口ずさむ賛歌を生んだ。悲しみこそ、喜びの始まりなのだ。
2.マリアの賛歌
・このハンナの祈りがキリストの母マリアの賛歌を導く。
−ルカ1:47−48「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう」。
・この賛歌はマリアが神の子を身ごもっている事を知らされ、その喜びを伝えるために、いとこのエリサベトを訪問した時に歌った歌だ。一見すると、子を身ごもった母親の喜びの歌のように聞こえるが、その裏には多くの葛藤があった。御使いがマリアに現れ「あなたは男の子を産む」と告げた。しかし、告げられた出来事は人間的には非常に重い出来事であった。マリアはまだ、結婚していない。未婚の娘が子を産むことは、当時においても現代においても、世の非難を招く出来事だ。当時は、姦淫を犯した者は石を投げて殺せと云う法があった時代だ。夫もないのに子を生む、世間は姦淫を犯したとしか見ないだろう。だからマリアは不安におののいた。彼女は人知れず苦しみ、祈ったであろう。その祈りに神は応えられた。婚約者ヨセフは、最初はマリアを離婚しようと決意していが、御使いから「マリアの胎内に宿る子は聖霊によるものだから、彼女を妻として迎えなさい」と告げられ、受け入れてマリアを妻として迎えた。マリアは喜びに包まれた。だからこそ、この賛歌を歌えたのだ。
・「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」。あなたは私に子を持つことと許して下さった。あなたはヨセフに働きかけ、子が聖霊によって身ごもったという信じられない出来事を信じさせて下さった。ヨセフは私を妻として迎えてくれた。この幸いを感謝します。そして、彼女はハンナの歌を歌う「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。マリアは安息日ごとに会堂で詠まれる聖書を聴き、ハンナの賛歌も暗誦するほど親しんでいたのであろう。全てを支配される神、悲しむ者、貧しい者を顧みて下さる神への賛歌を、彼女はハンナの歌に合わせて歌った。
3.サムエルが祭司として立てられる
・サムエルはシロの神殿で祭司として成長していく。他方、大祭司を務めるエリの息子たちは、権力を傘に来て主に捧げるべき肉を横取りしていた。祭司には腿と胸肉が与えられる規定であったが、彼らはそれ以上に欲した。
−サムエル記上2:12-14「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった。この祭司たちは、・・・だれかがいけにえをささげていると、その肉を煮ている間に、祭司の下働きが三つまたの肉刺しを手にやって来て、釜や鍋であれ、鉢や皿であれ、そこに突き入れた。肉刺しが突き上げたものはすべて、祭司のものとした」。
・肉の中でもっとも貴重な脂肪は焼いて主に捧げる慣わしであったが、彼らはそれも自分たちのものとした。
−サムエル記上2:15-16「人々が供え物の脂肪を燃やして煙にする前に、祭司の下働きがやって来て、いけにえをささげる人に言った。『祭司様のために焼く肉をよこしなさい。祭司は煮た肉は受け取らない。生でなければならない。』『いつものように脂肪をすっかり燃やして煙になってから、あなたの思いどおりに取ってください』と言っても、下働きは、『今、よこしなさい。さもなければ力ずくで取る』と答えるのであった」。
・エリは息子たちの悪評を聞いて彼らを戒めたが、息子たちは聞こうとしなかった。
−サムエル記上2:22-25「エリは彼らを諭した。『なぜそのようなことをするのだ。私はこの民のすべての者から、お前たちについて悪いうわさを聞かされている。息子らよ、それはいけない。主の民が触れ回り、私の耳にも入ったうわさはよくない。人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう。』しかし、彼らは父の声に耳を貸そうとしなかった。主は彼らの命を絶とうとしておられた」。
・「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」。祭司が罪を犯した時には主がその祭司を除かれる。祭司の役割は人々のために仕える事であり、自分を養うことではない。
−エゼキエル34:2-10「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。・・・私の群れは略奪にさらされ、私の群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、私の牧者たちは群れを探しもしない。・・・見よ、私は牧者たちに立ち向かう。私の群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。私が彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ」。
・エリと息子たちも、自分を養った故に、祭司職から除かれる。
−サムエル記上2:29-34「あなたはなぜ、私が命じたいけにえと献げ物を私の住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子を私よりも大事にして、私の民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか。・・・あなたの二人の息子ホフニとピネハスの身に起こることが、あなたにとってそのしるしとなる。二人は同じ日に死ぬ」。
・そして新しい祭司が立てられる。それが神殿で育てられているサムエルである。
−サムエル記上2:35「私は私の心、私の望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう。彼は生涯、私が油を注いだ者の前を歩む」。
・サムエルの成長に伴い、サムエルが主の祭司として立てられていく。
−サムエル記上3:19−21「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された」。
・教会では牧師が祭司として立てられる。牧師の基本は教会員に仕えることだ。それを忘れた時、牧師もまた除かれる。
−ヨハネ10:12-15「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる」。