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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年7月12日祈祷会(ルツ記1章、姑ナオミと嫁のルツ)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1. ナオミとルツ

・ルツ記は、士師時代の物語であり、ルツの婿になるボアズから四代目にダビデが生まれているから、ほぼ紀元前1150年頃の物語である。そこには、士師記に描かれた不法や争い、流血の風景は無く、庶民の素朴な信仰生活が描かれている。不信仰と無秩序の士師時代にあっても、信仰を持って歩んだ人たちがいたことが示されている。そして異邦人ルツを通してオベドが生まれ、オベドからダビデの父エッサイが生まれ、ダビデからやがてイエスが生まれ、新約のメシア誕生につながっていく。聖書は、「歴史には目的があり、人間には到達すべき目標がある」ことを一貫して主張し、このささやかな物語が、歴史の中で重要な一つのページを開いていく。
−マタイ1:5-6「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた・・・ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」。
・物語は、飢饉がベツレヘムを襲い、エリメレクが妻と二人の息子を連れて、故郷ベツレヘムを離れ、モアブに移り住むことから始まる。
−ルツ記1:1-2「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ」。
・エリメレクはモアブの地で死んだ。妻ナオミは息子たちにモアブの女を嫁に迎えさせたが、子が生まれないうちに二人の息子も死んだ(兄マロンはヘブル語=病気を意味し、弟キルヨンはヘブル語=死を意味している。両者とも虚弱体質であったことを暗示している)。ナオミは先に夫を亡くし、今は二人の息子も失い、異郷の地で一人残された。
−ルツ記1:3-5「夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された」。
・ナオミは、これからの人生に何の希望も抱けず、その心は抜け殻になっていた。そのナオミが孤独の中で、かすかな希望を聞いた。それは「イスラエルの飢饉が去り、再び豊かにされた」との知らせであった。ナオミは故郷で死ぬことを願い、ベツレヘムに戻ることを決心した。
−ルツ記1:6-7「ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを、彼女はモアブの野で聞いたのである」。
・ナオミは二人の嫁に、自分たちの故郷に帰り、再婚するように言った。彼女は「女の幸せは夫を持ち、子を持つことにある」と信じていた。
−ルツ記1:8-9「ナオミは二人の嫁に言った『自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にも私にもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように』」。

2.ナオミに同行するルツ

・嫁のオルパはナオミの言葉に従い去っていったが、もう一人の嫁ルツは離れようとしなかった。当時の女性は結婚して子を持つことこそ幸いとされたが、ルツは姑のためにこの可能性を捨てる。
−ルツ記1:16-17「ルツは言った『あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。私は、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神。あなたの亡くなる所で私も死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうか私を幾重にも罰してください』」。
・ルツは明日の見えないナオミとの生活を選んだ。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」、それがルツの信仰告白である。
−ルツ記1:18-19「同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた」。
・ベツレヘムに戻った二人は、これからどのように生活を立てていけばよいのかわからない。ナオミは同郷の女たちに言う「私の名前はナオミ(快い)ではなく、マラ(苦い)です。主が私を打たれたからです」。
−ルツ記1:19-21「ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、ナオミは言った『どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者が私をひどい目に遭わせたのです』」。
・ナオミは異郷の地で夫と息子を亡くした。ナオミはこの現実を主の御手による裁きと受け止めた。しかし、裁きを通して、主の憐れみが開かれる。ルツはやがてエリメレクの親族ボアズの妻となり、オベドを生む。このオベドからエッサイが、エッサイからダビデが生まれる。主は再びナオミを喜ばせてくださる。
−ルツ記4:18-22「ペレツの系図は次のとおりである。・・・サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた」。
・人は人生の途上において、「わが名をマラ=苦しみと呼べ」と言わざるをえない時がある。しかし、主の憐れみは尽きないことを信じて待つことにより、喜びが生まれる。
−第二コリント1:19-20「神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、私たちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」。

3.ルツ記をどう読むか(空知太栄光キリスト教会・ホームページから)

・ユダヤ人の選民意識、排他主義を考える時、異邦人モアブの女ルツがイスラエルの娘たちよりも信仰のゆえに称賛の的として描かれていることは驚くべきことだ。元々、モアブという言葉は姦淫を意味する。その地名のもとになったモアブ自身、ロトと彼の娘との近親相姦により生まれた(創世記19:30-38)。また荒野でイスラエルの民に異教の神を拝ませたのはモアブの民であった(民数記25:1-3,6-8)。神は、イスラエルの民がモアブ人の女と結婚することをお許しにならなかった。なぜなら、「彼らは必ずあなたがたの心を転じて、彼らの神々に従わせる」からであった(列王記上11:2)。そのモアブの女ルツが物語の主人公になっている。
・士師記は王と中心聖所の欠落による不統一を描き、それに続くルツ記は後の王制時代の形成および分裂を射程に入れた「橋渡し的役割」を担っており、サムエル記は王制の導入とその理念ダビデ王による統一王国、イスラエルの黄金時代を描く。ルツ記の読み方はその後の時代の変遷の中で変わってきた。
−統一王国時代においては、ルツ記は、ダビデ王朝やダビデ個人を神聖視する風潮の中で、輝かしいダビデの祖先に、一人の異邦人(モアブ)の女性を系図の中に持っているというショッキングな事実を明らかにし、それでもダビデの家が神の絶対的な恩寵による選びに根差していることを確認している(サムエル記下7:18〜19)。
−分裂王国時代には、ルツ記は、北イスラエル王国に対して、南ユダ王朝こそが神の絶対恩寵による選びの王朝であることを明らかにする。つまりダビデを祖とする南ユダ王朝の正当性、優位性が主張される。
−捕囚時代にはルツ記は、異邦の地バビロンで捕囚となっていた神の民に対して、絶望の中にあったナオミや異邦人ルツが信仰によってはからずも希望の光を与えられた事実を提示し、今一度、神を信頼して、神にのみ目を注ぐようにとの励ましを語っている。
−捕囚以降の時代へはルツ記は、ともすれば、選民意識による排他主義に傾くユダヤ人に対して、神の恵みと祝福は血筋によらず、国籍によらないことを教え、「血筋」という偶像を捨て、迷信を破壊するように諭している。

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