1.ギブアでの出来事
・士師記19章は「イスラエルに王がいなかったころ」との記述で始まる。人が絶対者を畏れることなく、自分の目に正しいと思うことをした時、どのような悲惨な出来事が起こるかを士師記は記す。物語は、レビ人が父の家に戻った側女を迎えに行くところから始まる。
−士師記19:1-4「イスラエルに王がいなかったそのころ、エフライムの山地の奥に一人のレビ人が滞在していた。彼はユダのベツレヘムから一人の女を側女として迎え入れた。しかし、その側女は主人を裏切り、そのもとを去ってユダのベツレヘムの父の家に帰り、四か月ほどそこにいた。夫は若者を伴い、ろばを連れて出で立ち、彼女の後を追い、その心に話しかけて連れ戻そうとした。彼女が彼を父の家に入れると、娘の父は彼を見て、喜び迎えた。そのしゅうと、娘の父が引き止めるので、彼は三日間そこにとどまり、食べて飲み、夜を過ごした」。
・レビ人は側女を連れて帰途についたが、途中で日が暮れそうになり、異邦人の町を避け、同胞の町ギブアで一夜を過ごそうとした。ギブアはベニヤミン領であったのに、誰も泊めてくれるものは無かった。
−士師記19:14-15「彼らは旅を続け、ベニヤミン領のギブアの近くで日は没した。彼らはギブアに入って泊まろうとして進み、町の広場に来て腰を下ろした。彼らを家に迎えて泊めてくれる者はいなかった」。
・親切な老人が通りかかり、彼はその家に客となった。
−士師記19:20-21「老人は、『安心しなさい。あなたが必要とするものは私に任せなさい。広場で夜を過ごしてはいけません』と言って、彼らを自分の家に入れ、ろばに餌を与えた。彼らは足を洗い、食べて飲んだ」。
・夜になると、ギブアの人々が押しかけてきて、旅人の肉体を求めた。ソドムで行われていた忌まわしい風習が、ベニヤミン族の中にも蔓延していた。聖書は同性愛を忌まわしいことと断罪する(レビ20:13)。
−士師記19:22「彼らがくつろいでいると、町のならず者が家を囲み、戸をたたいて、家の主人である老人にこう言った『お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい』」。
2.罪を罪と思わない世界の展開
・老人とレビ人は身を守るために、側女を差し出す。それが罪の行為であることを二人とも気づかない。側女は陵辱され、命を失う。男色は罪であるが、側女を差し出す行為も忌まわしいことだ。
−士師記19:25-26「人々は彼に耳を貸そうとしなかった。男が側女をつかんで、外にいる人々のところへ押し出すと、彼らは彼女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころようやく彼女を放した。朝になるころ、女は主人のいる家の入り口までたどりつき、明るくなるまでそこに倒れていた」。
・女は死んだ。旅人は弔いもせず、旅を続け、家に帰ると、女の体を12等分して、イスラエル各部族に送る。告発状である。そこには自分の財産を犯された怒りはあっても、一人の女性の死を悼む気持ちは無い。
−士師記19:27-29「彼女の主人が朝起きて、旅を続けようと戸を開け、外に出て見ると、自分の側女が家の入り口で手を敷居にかけて倒れていたので、『起きなさい。出かけよう』と言った。しかし、答えはなかった。彼は彼女をろばに乗せ、自分の郷里に向かって旅立った。家に着くと、彼は刃物をとって側女をつかみ、その体を十二の部分に切り離し、イスラエルの全土に送りつけた」。
・ギブアは罪を犯した。その結果、ギブアの属するベニヤミン族と他の部族の間に戦争が起きる。「王がいない時」、絶対者の居ない時、人は己の判断で行為する。その時の世界は恐ろしい世界だ。
−士師記19:30「これを見た者は皆言った『イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から今日に至るまで、このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。このことを心に留め、よく考えて語れ』」。
・自分の情欲の満足のために女児を誘拐して殺す男があり、再婚の妨げになるために娘を殺す母親もいる。何故このようなことが起こるのか、人は罪の中にある。
−ヤコブ4:1-2「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからです」。
・預言者ホセアはこの出来事を忌まわしいことと断罪する。しかし、神はこのような出来事を放置されない。放置されないことの中に救いがある(最大の処罰は人が悪の中に放置されることだ=ローマ1:24-27)
−ホセア10:9-10「イスラエルよ、ギブアの日々以来、お前は罪を犯し続けている。罪にとどまり、背く者らに、ギブアで戦いが襲いかからないだろうか。いや、私は必ず彼らを懲らしめる。諸国民は彼らに対して結集し、二つの悪のゆえに彼らを捕らえる」。
3.ギブアの日の意味するもの
・この物語は当時の悪の現実、イスラエルに王がなかった時代、それぞれめいめいがどのように、自己満足的に生きていたか、その堕落の極み、偶像礼拝(17〜18章)、不品行、内乱(19章)の状況を描いている。私たちが神の戒めを忘れ、自分の心の基準に従って歩みだすと、結果的には、このような悪と混乱を極めていく他はない。人間が「自分の目に正しいと見える」ことを行う時、その必然的な結果は暴力的な混沌なのである。
・この物語は創世記19章にあるソドムの悪徳の物語と類似している。創世記では、ロトの家に招かれた主のみ使いに対し、ソドムの男たちが押しかけ、「二人の旅人を出せ」と求める。ロトは抵抗するが、町の人々は有無を言わせず、押し入ろうとする。ロトは代わりに二人の娘を提供するというが人々は目もくれない。
−創世記19:6-9「ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った『どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私にはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから』。男たちは口々に言った『そこをどけ』。『こいつは、よそ者のくせに、指図などして』。『さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる』。そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした」。
・ソドムの罪の一つは男色(ソドミー)であったと言われる。男色は旧約聖書では死罪に当たる罪である。ギブアの物語も男色を批判する物語なのだろうか。
―レビ記18:22-25「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。動物と交わって身を汚してはならない。女性も動物に近づいて交わってはならない。これは、秩序を乱す行為である。あなたたちは以上のいかなる性行為によっても、身を汚してはならない。これらはすべて、あなたたちの前から私が追放しようとしている国々が行って、身を汚していることである』」。
・マーク・ウッズは「聖書に描かれているレイプや殺人が教えていること」の中で語る。
−実に暗い話である。レビ人は側女のことを全く気に掛けていない。彼女には何の権利もなく、レビ人の目に何の価値もない。彼は臆病で無情だ。恐ろしい性暴力も行われている。また、婦女子の殺害を含む大規模な流血も行われている。この物語について、3つのことが言える。第1に、これは現実である。この世のありのままの描写であり、そこには日常的な性暴力が含まれている。
・第2に、この話は(倫理的に)間違っている。もし物語が19章で終わりだとするなら、恐ろしいことである。悲惨なことが行われたにもかかわらず、誰も罰を受けていない。しかし実際は、国民は悪に対して反旗を翻している。後半で起きている戦いは、現代人にとっては衝撃的だとしても、道徳観念によって引き起こされたものだ。悪が放置されてはならないのである。罪は償われなければならない。
・第3に、法律が存在していなければならない。士師記では、あるフレーズが繰り返されている。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」というものだ。正義がなかったからこそ、ギブアの人々とレビ人はあのような行為に走った。正義をもたらしたのは、主に任命された王であるサウルとダビデだった。しかし続くサムエル記が記すのは、サウルもダビデも同じような罪を犯す。
・法の必要性は、人間の本質について基本的なことを教えている。人間には善を行う能力はあるが、人間性そのものは善ではないということだ。人間の本質は堕落しており、悪に向かう傾向がある。罰を受けずに済むと思う場合、人はそれをやってしまうものなのだ。人間社会に、強力な法律や道徳規範が必要なゆえんがここにある。好き勝手にしておくなら、人は無秩序と悪に傾いていく。私たちには贖(あがな)い主が必要なのだ。先に述べたような物語がなければ、聖書はもっとましになると言う人がいる。しかしこういった「恐怖の記述」こそ、人間についても神についても、より深く教えてくれるものなのである。」