江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年11月22日祈祷会(サムエル記上18章、ダビデを妬むサウル)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

2018年11月22日祈祷会(サムエル記上18章、ダビデを妬むサウル)

1.ダビデを妬むサウル

・ダビデはゴリアトを倒し、それを契機にダビデはイスラエル軍の武将に取り立てられていく。連戦連勝の軍に国民は歓喜し、若い武将ダビデに人気が集まる。サウルはダビデを嫉妬するようになった。
−サムエル記上18:6-9「ペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。女たちは楽を奏し、歌い交わした『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』。サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った『ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか』。この日以来、サウルはダビデを妬みの目で見るようになった」。
・サウルは「王位はあなたを離れた」と宣告され、その日を境に悪霊に悩まされる。悪霊はサウルの心を蝕み、ある時サウルはダビデを殺そうと槍を振りかざし、ダビデは危うく難を逃れた。
−サムエル記上18:10-11「神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた。ダビデは傍らでいつものように竪琴を奏でていた。サウルは、槍を手にしていたが、ダビデを壁に突き刺そうとして、その槍を振りかざした。ダビデは二度とも、身をかわした」。
・選ばれた王ダビデには祝福が、捨てられた王サウルには悪霊が下る。サウルはますますダビデを憎むようになった。
−サムエル記上18:12-15「主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ、ダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。ダビデは兵士の先頭に立って出陣し、また帰還した。主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた。サウルは、ダビデが勝利を収めるのを見て、彼を恐れた」。
・主は悪霊を通して、サウルに王の退陣を迫られた。サウルは従わず、悪霊に悩まされ、最後は不遇の死を遂げる。主の御心が離れた時、人はその地位や役割を退くべきだ。牧師の出処進退もそうだ。選びは神の決断であり、人はそれに従うべきだ。
−ローマ9:20-21「造られた物が造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」。
・才能は神から与えられたものであり、自分が役割を終えたことを自覚する人は、新しい指導者を祝福することが出来る。バプテスマのヨハネは自分が師であるにも関わらず、弟子のイエスを祝福することが出来た。
−-ヨハネ3:29-30「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は栄え、私は衰えねばならない。」

2.妬みから傲慢へ

・サウルはダビデを戦死させようとし、娘ミカルを与える見返りに、ペリシテ人の陽皮100枚を持ってくるように命じる。100人のペリシテ人を結納代わりに殺せとの命令だ。
−サムエル記上18:21-26「サウルは・・・ダビデに言った『二番目の娘を嫁にし、その日私の婿になりなさい』。・・・サウルは言った『王は結納金など望んではおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだと』。サウルはペリシテ人の手でダビデを倒そうと考えていた」。
・ダビデは要求された100人ではなく、200人を討って、その陽皮を王に差し出す。こうしてダビデは王の娘婿になるが、サウルはますますダビデを憎んだ。
−サムエル記上18:26-29「ダビデは・・・自分の兵を従えて出立し、二百人のペリシテ人を討ち取り、その陽皮を持ち帰った。王に対し、婿となる条件である陽皮の数が確かめられたので、サウルは娘のミカルを彼に妻として与えなければならなかった。サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた」。
・サウルは王としてダビデの勝利を祝うべきであった。ダビデにより、国はペリシテ人の侵略から守られた。しかし彼には出来なかった。ダビデに対する嫉妬、王を追われる恐怖、それは自己を中心に見る「傲慢の罪」であった。

3.サムエル記上18章の黙想

・サウロの問題は自己を中心に見る「傲慢の罪」であった。C.S.ルイスはキリスト教の精髄の中で、傲慢について語る。
−「キリスト教の精髄」から「本質的、究極的な悪徳は傲慢です。傲慢は、何かを所有するだけでは満足しません。それは隣人より多くのものを所有することで、はじめて満足感を覚えます。傲慢の本質は他人を比較します。他に抜きんでることを望みます。国家、また家庭における悲惨の主要な原因は傲慢でした。傲慢はつねに敵意と隣り合わせです。」
・彼は続ける「神において人は、あらゆる点で自分より無限にすぐれた存在と出会います。神をそのような存在として知り、それに比べて自分をまったく取るに足らぬものと感じるのでなければ、神を知っているとはいえません。傲慢な人間は、つねに人を見下します。何かを下に見るという姿勢を取るかぎり、自分の上にあるものに気づくことはないでしょう・・・私たちには自分の内にある傲慢の危険性を調べる方法があります。信仰生活を続けているうちに自分が良い人間であるかのように思いこみ、とりわけ他の誰かに比べずっと良い人間であるかのように思うようになったとしたら、それは神でなく、悪魔が私たちに働きかけているというしるしでしょう」。
・川越バプテスト教会加藤享牧師は語る「優れた資質を持ち、大きな仕事をした人なのに、サウルがどうしても出来なかった一つの事は、神を心の底から信じて生きる事だった」。
−2001年9月2日 説教から「神無しでも、自分は強く生きられると人は言う。でも神を失うことは、大きな愛を失うことだ。サウルは神に聞き従わないことで、神からの預言者サムエルを失った。神を捨てると、神から与えられた真実の愛の人を失う。そして愛を失うことで私たちの人格が深く傷つく。神を失うことで、サウルはダビデに対して異常な妬みや恐れを抱いた。神から愛されて、自分にはこんな恵みが与えられていると、恵みを数えて感謝し喜ぶことができたら、ダビデによって心がかき乱されることも起こらなかった。失っても、『主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』とヨブのように歌うこともできただろう。
・説教は続く「神を失うと、人間だけしか見えないから、人の目を必要以上に気にするようになる。ありのままの自分をさらして生きていけず、疲れていく。『全ての人に捨てられても、神は私をお見捨てにならない』という信仰を持てる人は、幸いだ。そのためには、自分の罪を神の前に率直に告白して、赦しをいただかなければならない。神は全ての人に神の霊(聖霊)を注がれる。でも信じて受けなければ聖霊の働きを頂けない。聖霊の働きは人格の統一と調和の回復である。パウロが語るように、聖霊の働きの実は『愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制』(ガラテヤ5:22〜23)なのだ」。
・サウロの罪は今日ではパワハラと呼ばれるかもしれない。パワハラについて弁護士の川人博氏は語る。
「私が担当する東京大学のゼミで、(お好み焼き店チェーンの)千房の創業者である中井政嗣さんに話をしてもらったことがあります。元受刑者を積極的に採用し、上司が部下に接する際に大事なのは、「ねぎらい」と「励まし」だと指摘されていました。これこそリーダーシップだと思います。この逆がパワハラで、相手のためではなく自分のストレス発散のために叱っています。誰でも加害者になる可能性があります。個人的資質も関係ありますが、環境や置かれた条件にも左右されます。社長から無理難題を課せられた部長や課長が、その部下に八つ当たりをするようになります。長時間労働で肉体的にも精神的にも疲れると、他者への配慮を欠くことにつながります。抑圧は下へ下へと移っていき、最終的に家庭内での虐待などにもつながっていると私は考えています」(2018年11月22日朝日新聞寄稿から)。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.