江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年4月19日祈祷会(士師記4−5章、信じないならば立つことは出来ない)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.カナンに立ち向かうデボラとバラク

・士師記4章−5章には同じ出来事を描く二つの記事がある。4章は散文の、5章は詩歌の形をとる。学者は5章の詩歌の方が古く、4章はそれを後代に編集したものとする。エフドの死後、イスラエルは堕落し、苦難が与えられる。カナン王ヤビンが抑圧者としてイスラエルを支配する。士師記はそれを「敵に売り渡す」と表現する(士師記には5回、神の民を敵の手に「売り渡した」ことを記している。「売り渡した」と訳されたヘブル語はマーハルで、神がイスラエルを「売り渡した」のには教育的訓練(懲らしめ)としての「苦しみ」を与えることで、再び、神を求めさせる目的があったとされる)。
−士師記4:1-3「エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、主はハツォルで王位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された。ヤビンの将軍はシセラであって、ハロシェト・ハゴイムに住んでいた。イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。ヤビンは鉄の戦車九百両を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を、力ずくで押さえつけたからである」。
・イスラエルは孤立し、民は困窮した。この時、デボラが召されて士師として立てられる。デボラは女預言者で、エフライム族の間にかなりの勢力を持っていた。
−士師記4:4-5「ラピドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。彼女は、エフライム山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめやしの木の下に座を定め、イスラエルの人々はその彼女に裁きを求めて上ることにしていた。」
・デボラは「立て」との主の声を聞き、ナフタリ族の将軍バラク(意味は稲妻)に軍勢を率いてシセラと戦うように求める。
−士師記4:6-7「ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せて言った『イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。私はヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。私は彼をお前の手に渡すと』」。
・平地は戦車を持つカナン人の支配下にあった。誰も戦車を持つ相手とは戦おうとはしなかった。バラクも自分たちだけでは戦えないと思っていたが、神の霊を受けたデボラが同行するのであれば戦うと言った。
−士師記4:8-9「『あなたが共に来てくださるなら行きます。もし来てくださらないなら、私は行きません』。デボラは『私も一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです』と答え、直ちにバラクと共にケデシュに向かった」。
・戦いはイスラエル軍の勝利となった。
−士師記4:14-15「デボラはバラクに言った。『立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。』バラクは一万の兵を従え、タボル山を下った。主は、シセラとそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられた。シセラは車を降り、走って逃げた。」
・戦いに敗れたシセラは逃走するが、ヘベルの妻ヤエルの計略により、殺される。
−士師記4:21-24「ヘベルの妻ヤエルは天幕の釘を取り、槌を手にして彼のそばに忍び寄り、こめかみに釘を打ち込んだ。釘は地まで突き刺さった。疲れきって熟睡していた彼は、こうして死んだ。そこへバラクがシセラを追ってやって来た・・・彼は天幕に入った。そこにはシセラが倒れて死んでおり、そのこめかみには釘が刺さっていた。神はその日、カナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前で屈服させてくださった。イスラエルの人々の手は、次第にカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。」

2..信じて立つ者は勝利する

・5章にあるデボラの歌はイスラエル最古の歌と言われている。それは鉄の戦車を恐れて何も出来なかった民が、神の励ましによって敵を追い出すことが出来た戦勝を喜ぶ歌だ。
−士師記5:6-7「アナトの子シャムガルの時代、ヤエルの時代に、隊商は絶え、旅する者は脇道を行き、村々は絶えた。イスラエルにこれらは絶えた。私デボラはついに立ち上がった。イスラエルの母なる私はついに立ち上がった。」
・その時、イスラエル軍には盾も槍もなかった。ただ「神が共にいて下さる」という信仰で、900両の戦車を持つ敵に立ち向かっていった。カナン軍にとっては想定外の出来事であった。
−士師記5:8-11「城門に戦いが迫ったが、イスラエルの四万人の中に、盾も、槍も見えたであろうか。わが心はイスラエルの指揮する者らと共に、この民の進んで身をささげる者と共にある。主をほめたたえよ。 栗毛の雌ろばに乗り、敷物を置いてその背に座り、道を行く者よ、歌え。水くみ場で水を分ける者らの声にのせて、主の救いを語り告げよ。イスラエルの村々の救いを。その時こそ、主の民は城門に向かって下って行く。」
・戦いはキション河のほとりのメギドで行われた。大雨が降り、河が氾濫し、戦車の車輪がぬかるみに取られ、カナン軍は総崩れになった。
−士師記5:19-21「王たちはやって来て、戦った。カナンの王たちは戦った、メギドの流れのほとり、タナクで。だが、銀を奪い取ることはできなかった。もろもろの星は天から戦いに加わり、その軌道から、シセラと戦った。キション川は彼らを押し流した、太古の川、キション川が。わが魂よ、力強く進め」。
・戦いは主がなされる。そうであれば戦車900台も脅威ではなくなる。キション川は、水なし川であったが、雨季になると急速に奔流となる川であった。この時、主は暴風雨を起こし、水なし川を沼沢と化し、戦車を無用の長物とされた。信じて立つ時にそこに神の力が働く。
−詩篇44:3「我らの先祖を植え付けるために、御手をもって国々の領土を取り上げ、その枝が伸びるために、国々の民を災いに落としたのはあなたでした。」

3.デボラの歌の意義

・敵を倒したのは武器や馬ではなく、デボラに鼓舞された主の民の信仰であった。
−士師記5:12-13「奮い立て、奮い立て、デボラよ。奮い立て、奮い立て、ほめ歌をうたえ。立ち上がれ、バラクよ、敵をとりこにせよ、アビノアムの子よ。その時、残った者は堂々と下って行く。主の民は勇ましく私と共に下って行く。」
・教会もまた主が立てられる。それを忘れた時、人は自分の知恵で牧師を選び、また廃しようとする。方々の教会で牧師と信徒が対立し、牧師が辞任に追い込まれる争いが起きている。
-第一コリント1:11-13「私の兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。」
・教会の創設者であったパウロにコリントの人々が逆らった時、パウロが語ったのは「教会もまた主が立てられる」ということであった。
−第一コリント3:10-13「私は、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。」
・人の目には不可能なことでも信じれば可能になる。信じきる時に新しい出来事が生まれる。
−マルコ9:22-24「『霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』イエスは言われた。『できればと言うか。信じる者には何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のない私をお助けください。』」
・ヘブル書は信仰の人として、バラクを取り上げる。しかし、士師記が語るのは、バラクは「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、私は行きません」と語った人物であり、信仰以外のしるしを求めた人物であった。バラクを見出し、力づけたのはデボラであり、敵将シセラを倒したのはヘベルの妻ヤエルであるが、ヤエルもまた忘れられている。へブル書記者の中にまだ女性を信仰の勇者と認める用意がないのかもしれない。
−へブル11:32「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。」

*参考資料:士師記に見る女性の人権侵害

1.士師記10〜11章、自分の娘をいけにえとしたエフタ

・イスラエルはまたもや主の前に罪を犯し、主はイスラエルをアンモン人の支配下に放置される。アンモン人はヨルダン川東岸のギレアドを侵略し、川を越えて西岸の地域をも侵し始めた。イスラエルは主に救いを求めるが、主は拒否される「お前たちの神に救いを求めよ」。しかし、イスラエルの悔い改めの真実であることを見られ、彼らを救うために、エフタを選ばれる。
―士師記10:15-16「イスラエルの人々は主に言った『私たちは罪を犯しました。私たちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日私たちを救い出してください』。彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになったので、主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった」。
・エフタはギレアド出身のならず者だった。彼は仲間と徒党を組んで隊商を襲う夜盗集団の頭だった。しかし、その勇敢さは聞こえていたので、人々は彼に指揮官になるよう頼む。
―士師記11:11「民は彼を自分たちの頭とし、指揮官として立てた。エフタは、ミツパで主の御前に出て自分が言った言葉をことごとく繰り返した」。
・エフタは戦の勝利を願い、「勝利の暁には家の者をいけにえとして捧げます」と誓願する。
―士師記11:30-31「もしあなたがアンモン人を私の手に渡してくださるなら、私がアンモンとの戦いから無事に帰る時、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその者を、焼き尽くす献げ物といたします」。
・戦いはエフタの勝利になった。エフタが家に帰ってみると、彼を最初に迎えたのは、彼の娘であった。エフタは娘をいけにえとして捧げると約束してしまった。
―士師記11:34-35「エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った『ああ、私の娘よ。お前が私を打ちのめし、お前が私を苦しめる者になるとは。私は主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない』」。
・娘は悲しむが誓願の言葉を破ることは出来ない。彼女はいけにえとして死んで行った。
―士師記11:36-39「彼女は言った『あなたは主の御前で口を開かれました。私を、その口でおっしゃったとおりにしてください・・・二か月の間、私を自由にしてください。私は友達と共に出かけて山々をさまよい、私が処女のままであることを泣き悲しみたいのです』。二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓い通りに娘を捧げた」。
・アブラハムが息子イサクを捧げようとした時、主は備えの羊を送ってそれを止めさせられた(創世記22:10-15)。しかし、今回は何もされない。エフタは取引をしたからだ。主が求められるのはいけにえでなく従順だったのに、エフタはいけにえを捧げた。エフタが娘の助命を求めたら主は許されたであろう。エフタは求めなかった。彼の不信仰が娘を殺したのだ。
―ルカ11:11-13「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
・「もし助けてくれるなら・・・します」という祈りは不信仰なのだ。神は私たちに無償の恵みを下さることを信じきれない祈りなのだ。
―イザヤ55:1「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」。

2.士師記19章、ギブアで殺された女性

・士師記19章はいつも通り「イスラエルに王がいなかったころ」との記述で始まる。人が絶対者を畏れることなく、自分の目に正しいと思うことをした時、どのような悲惨な出来事が起こるかを士師記は記す。物語は、レビ人が父の家に戻った側女を迎えに行くところから始まる。
―士師記19:1-4「イスラエルに王がいなかったそのころ、エフライムの山地の奥に一人のレビ人が滞在していた。彼はユダのベツレヘムから一人の女を側女として迎え入れた。しかし、その側女は主人を裏切り、そのもとを去ってユダのベツレヘムの父の家に帰り、四か月ほどそこにいた。夫は若者を伴い、ろばを連れて出で立ち、彼女の後を追い、その心に話しかけて連れ戻そうとした。彼女が彼を父の家に入れると、娘の父は彼を見て、喜び迎えた。そのしゅうと、娘の父が引き止めるので、彼は三日間そこにとどまり、食べて飲み、夜を過ごした」。
・レビ人は側女を連れて帰途についたが、途中で日が暮れそうになり、異邦人の町を避け、同胞の町ギブアで一夜を過ごそうとした。しかし、ギブアでは誰も泊めてくれるものは無かった。
―士師記19:14-15「彼らは旅を続け、ベニヤミン領のギブアの近くで日は没した。彼らはギブアに入って泊まろうとして進み、町の広場に来て腰を下ろした。彼らを家に迎えて泊めてくれる者はいなかった」。
・しかし、親切な老人が通りかかり、彼はその家に客となった。
―士師記19:20-21「老人は、『安心しなさい。あなたが必要とするものは私に任せなさい。広場で夜を過ごしてはいけません』と言って、彼らを自分の家に入れ、ろばに餌を与えた。彼らは足を洗い、食べて飲んだ」。
・夜になると、ギブアの町の人々が家に押しかけてきて、旅人の肉体を求めた。ソドムで行われていた忌まわしい同性愛の風習が、ベニヤミン族の中にも蔓延していた。聖書は同性愛を断罪する(レビ20:13)。
―士師記19:22「彼らがくつろいでいると、町のならず者が家を囲み、戸をたたいて、家の主人である老人にこう言った『お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい』」。
・老人とレビ人は身を守るために、側女を差し出す。それが罪の行為であることを二人とも気づかない。その結果、側女は陵辱され、命を失う。男色は罪であるが、側女を差し出す行為も神の目から見れば忌まわしいことだ。
―士師記19:25-26「人々は彼に耳を貸そうとしなかった。男が側女をつかんで、外にいる人々のところへ押し出すと、彼らは彼女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころようやく彼女を放した。朝になるころ、女は主人のいる家の入り口までたどりつき、明るくなるまでそこに倒れていた」。
・女は死んだ。旅人は弔いもせず、旅を続ける。そして家に帰ると、女の体を12等分して、イスラエル各部族に送る。告発状である。そこには自分の財産を犯された怒りはあっても、一人の女性の死を悼む気持ちは無い。
―士師記19:27-29「彼女の主人が朝起きて、旅を続けようと戸を開け、外に出て見ると、自分の側女が家の入り口で手を敷居にかけて倒れていたので、『起きなさい。出かけよう』と言った。しかし、答えはなかった。彼は彼女をろばに乗せ、自分の郷里に向かって旅立った。家に着くと、彼は刃物をとって側女をつかみ、その体を十二の部分に切り離し、イスラエルの全土に送りつけた」。
・ギブアは罪を犯した。その結果、ベニヤミン族と他の部族の間に戦争が起きる。「王がいない時」、絶対者の居ない時、人は己の判断で行為する。そのときの世界は恐ろしい世界だ。
―士師記19:30「これを見た者は皆言った『イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から今日に至るまで、このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。このことを心に留め、よく考えて語れ』」。
・自分の情欲の満足のために女児を誘拐して殺す男があり、再婚の妨げになるために娘を殺す母親もいる。何故このようなことが起こるのか、人は罪の中にあると言わざるをえない。人は恵み以外に救われない。預言者ホセアはこの出来事を忌まわしいことと断罪する。しかし、神はこのような出来事を放置されない。放置されないことの中に救いがある(最大の処罰は人が悪の中に放置されることだ=ローマ1:24-27)
―ホセア10:9-10「イスラエルよ、ギブアの日々以来、お前は罪を犯し続けている。罪にとどまり、背く者らに、ギブアで戦いが襲いかからないだろうか。いや、私は必ず彼らを懲らしめる。諸国民は彼らに対して結集し、二つの悪のゆえに彼らを捕らえる」。

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