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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年9月14日祈祷会(民数記31章、ミディアンに対する戦い)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

2017年9月14日祈祷会(民数記31章、ミディアンに対する戦い)

1.ミディアンとの戦い

・かつてミディアン人の女たちは、イスラエルの民を偶像崇拝に導き、そのために多くの者が死んだ。
−民数記25:1-3「イスラエルがシティムに滞在していた時、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげる時に民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた」。
・そのため主は「ミディアン人を滅ぼす」ようにモーセに命じ、モーセは民に兵役登録をさせ、軍勢を整えた。準備が出来た民に対して、出撃命令が出される。
−民数記31:3-4「あなたたちの中から戦いのために人を出して武装させなさい。ミディアン人を襲い、ミディアン人に対して主のために報復するのだ。イスラエルの全部族から、部族ごとに千人ずつを戦いに送り出しなさい。」
・祭司がラッパを吹き、戦いが始まった。戦いはイスラエルの一方的な勝利になった。
−民数記31:6-7「モーセは、部族ごとに千人ずつの兵を戦いに送り出し、祭司エルアザルの子ピネハスを、聖なる祭具と出陣に吹くラッパをその手に持たせて、彼らと共に送り出した。彼らは、主がモーセに命じられたとおり、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにした」。
・イスラエルの戦士たちは全てを滅ぼし尽くすべきなのに、女と子供を捕虜にして帰ってきた。モーセは彼らに対して怒った。
−民数記31:14-18「モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、彼らにこう言った。『女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムに唆され、イスラエルの人々を主に背かせて引き起こしたもので、そのために、主の共同体に災いがくだったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい』」。
・この戦いは聖戦であった。聖戦であっても人を殺した者は汚れる。民は汚れを清めるように命令された。
−民数記31:19「あなたたちは七日間、宿営の外にとどまりなさい。あなたたちでも捕虜でも、人を殺した者、殺された者に触れた者は皆、三日目と七日目に、身を清めなさい」。

2.聖戦をどう理解すれば良いのか

・この記事は祭司資料によって書かれている。残ったミディアンの娘たちが3万2千人とすれば、殺された男子の数は10万人を超えよう。そのような虐殺が実際に起こったというよりは、信仰的に誇張して書かれている。聖絶という出来事は宗教的な概念であり、歴史的出来事ではない。滅ぼされたはずのミディアン人が後の士師記では、なおイスラエルの宿敵になっている。
−士師記6:1-2「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。ミディアン人の手がイスラエルに脅威となったので、イスラエルの人々は彼らを避けるために山の洞窟や、洞穴、要塞を利用した。」
・モーセは女たちを生かした兵士たちに怒った。「滅ぼし尽くせ」という命令に逆らったからだ。旧約聖書はある時には「民を滅ぼし尽くす」ことを命じるが、異邦の悪習がイスラエルに及ばぬための施策である。
−申命記20:16-18「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである」。
・しかし、その必要がない時には、女や子供は助けられた。
−申命記20:13-14「あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕り品を自由に用いることができる」。
・聖戦がカナン侵攻時に限られたことを覚える必要がある。それは必要悪として許容されたものであった。
−ヨシュア記6:20-21「角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、驢馬に至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」。
・滅ぼし尽くすのは神の本意ではない。神はイスラエルを通して、異邦人をも救おうとされている。
−エゼキエル18:23「私は悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」。
・人が「剣を取ることをやめる」には十字架の贖罪が必要であった。十字架後はもはや剣は必要ではない。
−イザヤ2:2-4「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう」と。・・・彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない』。

3.聖戦、聖絶をどう理解するか(いのちのことば社「新聖書辞典」から)

・「聖戦」という言葉そのものは聖書にはないが、聖戦の思想は旧約聖書の中で繰り返し強調されている。聖戦とは主の戦争であり、主御自身が戦いの主であり、敵は神の敵なのだという確信に立ってなされる(出15:3,民10:35)。主御自身が「この戦いはあなたがたの戦いではなく,神の戦いである」と宣言している(?歴20:15,17,32:7‐8)。しかも神は御自身の民イスラエルのために戦われるのであり(申1:30,3:22)、彼らに勝利を与えるのも主である(申20:4,?サム19:5,?歴11:14,詩98:1)。
・イスラエルの出エジプト時の戦い、荒野放浪時代の戦い、カナン侵入時代の戦い、王国時代の戦いもすべて聖戦であった(出14:13‐31,17:8‐16,ヨシ5:13‐6:21,?サム11:1‐13)。しかもこの戦いにおいて主の命令は厳しく、しばしば聖絶が要求された(申20:17,ヨシ6:17,21)。
・このように神が聖戦を遂行されたのは、この地上の人類はアダムの罪によって汚れているゆえに、神は御自身の聖と義を示す必要があった。第2にカナン文明が罪の文明であり,神はイスラエルを用いてカナン文明をさばく必要があった。第3に神は契約の神であり、神が族長たちに約束した土地をイスラエルに与えるためであったとされる。
・聖絶(ヘーレム)はレビ記、申命記、ヨシュア記などに用いられるが、一般的な用途に当てることを禁じ神のために聖別すること、あるいはその捧げられたものを意味した。「すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである」(レビ27:28)。 申7:1‐6において、7つの異邦の民の聖絶が命じられている。それは主の聖なる民が入植地カナンの宗教によって腐敗させられないためである。従って、神への奉納物は、ここでは「忌みきらうべきもの」(申7:26)、呪われるべきもの、滅ぼし尽されるべきもの、根絶やしにして除くべきものを意味している。
・私たちは旧約のイスラエルを批判できない。なぜなら私たちも、必要悪としての戦争を肯定せざるを得ない環境にあるからだ。石川明人氏(桃山学院大准教授)は著書「キリスト教と戦争」の中で語る。「アウグスティヌスもトマス・アクィナスも正戦を肯定していた。ルターもカルヴァンも、条件付きで武力行使は認めていた。「アウグスブルク信仰告白」や「ウェストミンスター信仰告白」は、正しい戦争、合法的な戦争はある、という前提で書かれている。イエスの教えを文字通りに読めば、確かに非暴力主義・平和主義であると認めざるを得ないのに、現実社会では戦争を認めざるを得ない部分がある」。
・彼は続ける「キリスト教は、それ自体が『救い』であるというよりも、『救い』を必要とする救われない人間の哀れな現実を、これでもかと見せつける世俗文化である。キリスト教があらためて気付かせてくれるのは、人間には人間の魂を救えないし、人間には人間の矛盾を解決できない、という冷厳な現実に他ならない」。

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