1.カナンからモアブへ
・民はカナンの南ホルマの地へ再び戻った。死海南部の地域である。そこは38年前、主が引き返せと命じられたのに、民が攻め上って敗退した場所でもある。今回は主が共におられたので彼らは勝利し、敵を滅ぼし、その名をホルマ=絶滅と呼んだ。
−民数記21:2-3「イスラエルは主に誓いを立てて『この民を私の手に渡してくださるならば、必ず彼らの町を絶滅させます』と言った。主はイスラエルの言葉を聞き入れ、カナン人を渡された。イスラエルは彼らとその町々を絶滅させ、そこの名をホルマ(絶滅)と呼んだ」。
・神は民をそこから引き返させ、紅海を経て、モアブの地に導いた。
−民数記21:10-20「イスラエルの人々は旅を続け、オボトに宿営し、オボトを旅立つと、モアブの東側の荒れ野にあるイイエ・アバリムに宿営した・・・そして荒れ果てた地を見下ろすピスガの頂へと進んだ」。
・アモリ人が行く手を妨げたので、彼らは戦い、その地を占領した。ここでも全ての敵は絶滅させられた。
−民数記21:24「イスラエルは彼を剣にかけて、南はアルノン川から北はヤボク川、東はアンモン人の国境まで、その領土を占領した」。
・イスラエルはバシャンでも同じように敵を滅ぼし尽くした。
−民数記21:35「イスラエルは彼とその子らを含む全軍を一人残らず撃ち殺し、その国を占領した」。
・古代、将来に禍根を残さぬよう、敵を滅ぼし尽くした。ある人は旧約を見て、聖戦=神の戦いを肯定する。しかし、敵を滅ぼすのが神の御心なのではない。民が未成熟のため、神はやむを得ぬものとして受入れられた。
−エゼキエル18:23「私は悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」。
2.青銅の蛇
・カナン人を打ち破ったにもかかわらず、神はそのまま民を約束の地に入れず、民を一旦紅海まで戻らせ、遠回りの道を歩まされた。思い通りに事が運ばないと民はつぶやく。
−民数記21:4-5「彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます』」。
・当初は歓喜して受けたマナが今では「粗末な食物」と形容されている。神は必要な物は与えられる。しかし、それは必要な限りであり、最低限のものである。それ以上欲しがる時に、貪りが生じる。支援は当初は食糧やお金が必要であろうが、本当に必要なものは自立するための支援である。
−連盟による教会支援を見ると、支援金を受けた教会は自立できない場合が多い。依存が生じるからだ。
・この民は再度砕きを必要とした。砂漠には多くの毒蛇がいる。火のように赤い毒蛇が人々を襲い、多くの者が死んだ。民はその蛇が主から送られたと恐れた。
−民数記21:6「主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た」。
・民は災いを与えられて、初めて自分たちの罪を認め、悔い改めた。災い=荒野は必要なのだ。
−民数記21:7「民はモーセのもとに来て言った『私たちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、私たちから蛇を取り除いてください』。モーセは民のために主に祈った」。
・悔い改めた者には赦しが与えられる。青銅の蛇を仰ぎ見た者は、蛇にかまれても生き返った。
−民数記21:8-9「主はモーセに言われた『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る』。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」。
・青銅の蛇を仰げば死なないとなると、やがて青銅の蛇が偶像の神となり、人々はそれを拝む。偶像は破壊しなければならない。ヒゼキヤはモーセの青銅の蛇を破壊した。
−列王記下18:4「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、この頃までこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである」。
・パウロはこの話をコリント書で展開し、不平を言い続ける者は神により滅ぼされると警告する。
-1コリント10:9-10「また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。」
3.木にかけられた主を仰ぐ
・イエスはニコデモとの対話の中でこの話に言及され、木に架けられた者=十字架を仰ぐ者は命を得ると言われた。ヨハネの教会はユダヤ教会と対立していたが、ユダヤ人にとって最大の障害は、キリスト者が、十字架で死んだイエスをキリスト(メシア)とすることだった。ユダヤ人にとって「木にかけられた死体は、神に呪われた」(申命記21:23)ものであり、神に呪われた者がメシアであるはずがないとユダヤ教徒は批判していた。それに対するヨハネ教会の反論が13節以下に為されている。
-ヨハネ3:13-14「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(3:13-14)
・「上げる=ヒュプソオー」という言葉が「モーセが荒れ野で蛇を上げた」(民数記21章)という故事の中で用いられる。エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野での困難な旅に耐えられず、つぶやき始める。民がエジプトで奴隷として苦しめられていたからこそ、神はモーセを遣わしてイスラエルの民を救出された。エジプト軍が追ってくると紅海の奇跡を通して、彼らを助けられ、水がなくなると水を与え、食べ物が無くなればマナが与えられた。しかし民のつぶやきは終わらない。
・神は炎の蛇を彼らに送り、多くの者が死に、民は「助けてください」とモーセに求める。モーセは主に祈り、主はモーセに命じられる「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(民数記21:8)。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げ、蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得たという物語だ。蛇は人間を苦しめる罪と悪の象徴だ。しかし神はその蛇をして人を救うものにしてくださった。同じように、呪いと死の象徴である十字架もまた、神がそこに御子を上げる(ヒュプソオー)ことによって、救いの手段となった。人は十字架上に自己の罪が裁かれているのを見て救われるのだとヨハネは言っている。復活によって神の子と立てられた方が、地上で十字架に死なれたのは何故か、その意義を証しして世に告げ知らせることこそが、ヨハネの教会にとって最も大事なメッセージだった。