1.宿営地での過越祭り
・エジプトを出た日から1年が経ち、民は荒野で二回目の過越祭りを祝った。
−民数記9:1-5「エジプトの国を出た翌年の第一の月、主はシナイの荒れ野でモーセに仰せになった。『イスラエルの人々は定められた時に過越祭を祝わねばならない。あなたたちは、この月の十四日の夕暮れ、定められた時にそれを祝い、そのすべての掟と法に従って祝いなさい』。モーセはイスラエルの人々に過越祭を祝うように命じた。彼らは第一の月の十四日の夕暮れに、シナイの荒れ野で過越祭を祝った。」
・古代イスラエルの一年はニサンの月(あるいはアビブの月)から始まり(太陽暦の3〜4月)、その月に過越しが祝われる。過越祭りは、イスラエルの民をエジプトから解放するために、主がエジプトの初子を打たれたことを記念して、守るように命じられた祭りである。
−出エジプト記12:21-27「モーセはイスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。『家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい・・・主がエジプト人を撃つために巡る時、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される・・・あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない・・・あなたたちの子供が「この儀式にはどういう意味があるのですか」と尋ねる時は、こう答えなさい「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれた時、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」』。民はひれ伏して礼拝した」。
・イエス自身も忠実なユダヤ教徒として過越しの祭りを祝われた。イエスが弟子たちと取られた最後の晩餐は過越しの食事である。
-ルカ22:14-16「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない。』」
・過越しの祭りにおいては、小羊の肉を食べ、種入れぬパンを食べる。パウロはイエスが私たちのために「過越しの子羊」として死んで下さったと理解している。現代の教会はこの過越し祭を復活祭として祝う。キリストがこの日に復活されたからである。
-1コリント5:7「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです。」
2.過越しを祝えない人のために
・しかし、祭儀的不浄のため、あるいは不在のために、その月に過越を祝えない人々もいる。その人々のために月遅れの過越祭りが用意された。全ての人々に過越の恵みを与えるためである。
−民数記9:10-11「イスラエルの人々に言いなさい。あなたたち、もしくはあなたたちの子孫のうちで、死体に触れて汚れている者、あるいは遠く旅に出ている者も、主の過越祭を祝うことができる。第二の月の十四日の夕暮れにそれを祝い、酵母を入れないパンと苦菜を添えてそのいけにえを食べなさい」。
・そして他国の者も過越しの祭りを共に祝うことが出来るとされた。
-民数記9:14「あなたたちのもとに寄留する者が、主のために過越祭を祝おうとするならば、過越祭の掟と法に従って祝わねばならない。この掟は寄留者に対しても、その土地に生まれた者に対しても、あなたたちに等しく適用される。」
・ユダヤの会堂では、土曜日の安息日礼拝を守れない人のために、金曜日と月曜日にも礼拝が捧げられた。現代もある教会は、水曜日の祈祷会を「水曜礼拝」として守る。イエスの十字架と復活を新しい過越と受け止める者にとって、礼拝は恵みの出来事であり、日曜日に難しければ、別の日に守るように配慮することも必要だ。
3.臨在の主の導きに従う
・エジプトからシナイまで、人々は、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて進んできた。今、幕屋が完成し、雲は幕屋を覆い、人々は雲が幕屋の上にある時は留まり、幕屋から離れると出立した。
−民数記9:15-17「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った・・・この雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した。」
・荒野での旅は、実際上は地理に精通した道案内の助言に基づいて為された。
−民数記10:29-32「モーセは、義兄に当たるミディアン人レウエルの子ホバブに言った。『私たちは、主が与えると約束してくださった場所に旅立ちます。一緒に行きましょう。・・・あなたは、荒れ野のどこに天幕を張ればよいか、よくご存じです。私たちの目となってください。一緒に来てくだされば、そして主が私たちに幸せをくださるなら、私たちは必ずあなたを幸せにします』」。
・しかし、人々はこのような歩みを主の導きと信じて従った。主は人の働きを通して、私たちを導かれる。
−民数記9:18「イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた」。
・これが信仰だ。ある教会に不適格と思われる牧師が赴任し、数年経っても状況は変わらないため、人々は牧師に辞任を求めた。これは指導者の交代を求めたイスラエルの民と同じだ。
−民数記12:1-2「ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し・・・更に言った。『主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか』」
・他方民数記は語る「人々は、二日でも、一か月でも、何日でも、雲が幕屋の上にとどまり続ける間・・・そこにとどまり、旅立つことをしなかった」。別の教会は同じ状況下で、自分たちで決断せず、神の導きを祈り、牧師と状況改善のための話し合いを持った。
−民数記9:21-23「雲が夕方から朝までしかとどまらず、朝になって、雲が昇ると、彼らは旅立った。昼であれ、夜であれ、雲が昇れば、彼らは旅立った。二日でも、一か月でも、何日でも、雲が幕屋の上にとどまり続ける間、イスラエルの人々はそこにとどまり、旅立つことをしなかった。そして雲が昇れば、彼らは旅立った。彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守った。」
・主が教会に臨在されていることを確信し、主の導きに従って自分たちの進路を決定する。それが大事なことなのではないか。
-マタイ18:20「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」