1.新しい十戒の授与
・民はモーセがシナイ山で十戒を受けている時、早くもその戒めを破り、偶像を造ってそれを拝んでいた。古い十戒はこのようにして、最初から破れ、新しい十戒が民に与えられることになった。
−出エジプト記34:1-2「前と同じ石の板を二枚切りなさい。私は、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂で私の前に立ちなさい。」
・主はご自分をモーセの前に掲示される「憐れみ深く恵みに富む神、しかし罰すべき者を罰せずにはおかない神」。当時の人々が理解した神像がここにある。
−出エジプト記34:6-7「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。』」
・主は自らを「罪と背きと過ちを赦す神」と宣言された。しかし、義である故に「罰すべきものは罰する」。罰は3〜4代であり、慈しみは千代に及ぶ。人間は罪を本質とする存在であり、そのために災いや悲しみは罰として人間に必要なものだ。しかし同時に、神は人間の罪と過失がどうあろうとこの世界と共に歩まれることを創世記記者は確認している。
−創世記8:21-22「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私は、このたびしたように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。』」
・この宣言は旧約聖書を貫く神の自己啓示であり、その後も繰り返し語られる。
−申命記5:9-10「私は主、あなたの神。私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」
・モーセはこの宣言を聞いて、主の前に跪き、「私たちはあなたの赦しなしには存在できない」と告白する。
−出エジプト記34:8-9「モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。『主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、私たちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、私たちの罪と過ちを赦し、私たちをあなたの嗣業として受け入れてください。』」
・人間の本質は罪だ。だから、将来の道は人間の善意や忠実さによっては決定されない。人間は神の赦しの約束に支えられる以外に生存出来ない。礼拝こそ人間が生きるために不可欠のものだ。
−出エジプト記34:10-11「見よ、私は契約を結ぶ。私はあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。私があなたと共にあって行うことは恐るべきものである。私が、今日命じることを守りなさい。」
2.倫理から祭儀へ
・古い十戒は倫理的戒めであった。しかし、人間は守ることは出来なかった。それゆえ、新しく与えられる戒めは、どのように礼拝を守るべきかを記した祭儀十戒だった。倫理は礼拝の中から生まれる。
−出エジプト記34:14-26「あなたはほかの神を拝んではならない・・・あなたは鋳像の神々を造ってはならない。あなたは除酵祭を守りなさい・・・初めに胎を開くものはすべて、私のものである。あなたの家畜である牛や羊の初子が雄であるならば、すべて別にしなければならない・・・あなたの初子のうち、男の子はすべて贖わねばならない。何も持たずに、私の前に出てはならない。あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作の時にも、収穫の時にも、仕事をやめねばならない・・・あなたは、小麦の収穫の初穂の時に、七週祭を祝いなさい。年の終わりに、取り入れの祭りを祝いなさい。年に三度、男子はすべて、主なるイスラエルの神、主の御前に出ねばならない・・・あなたは、私にささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない。・・・あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。」
・神から啓示を受けて帰るモーセの顔は、神の栄光を受けて輝いていた。
−出エジプト記34:29-30「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下った時、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。」
・信仰共同体における神の言葉の伝達者の顔も輝く。主は外的な手段を通して、神の言葉の伝達者が共同体の中で信頼に値することを明らかにされる。
−?コリ3:7-9「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。」
3.旅立ち
・出エジプト記は実質的に34章で終わり、その後に記されていることは細かな祭儀の定めだ。そして最後に出エジプト記はシナイからの旅立ちを語って、民数記へと続いていく。
−出エジプト記40:34-38「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。」
・そしてシナイから約束の地への旅が続く。それを記述するのが民数記だ。
−民数記10:11-12「第二年の第二の月の二十日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。」
*出エジプト記2巡目の学びはここで終え、次週からは民数記の学びに入る。