1.試し(マサ)と争い(メリバ)
・エジプト出発から1カ月が経った。民が導かれたのは荒野であり、そこでは水も食べ物も乏しい。先に神はマナと鶉を民に与えて養われたが、今回は水の不足が起こり、民の不満が再び爆発する。
―出エジプト記17:1-3「主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い『我々に飲み水を与えよ』と言うと、モーセは言った『なぜ、私と争うのか。なぜ、主を試すのか』。しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。』」
・民はマナの奇跡を経験した。彼らは本来ならば「水も神が与えて下さる」と信じるべきなのに、信じることが出来ない。モーセに対する信頼、ひいては神に対する信頼も、水の不足で大きく揺らぐ。モーセは主に「何とかしてほしい」と訴えた。
―出エジプト記17:4「モーセは主に、『私はこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、私を石で打ち殺そうとしています』と叫んだ。」
・モーセは主に願い、主は彼らに水を与える。一時的には問題は解決するが、苦難が来れば同じ問題が再燃するだろう。問題は外部状況ではなく、私たちの心のあり方(信仰)なのである。
―出エジプト記17:6-7「『見よ、私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである。」
・レフィディムに民を導かれたのは主である。主は、ある時には、水のない場所に民を導かれる。私たちに与えられているのは約束であって、成就ではない。私たちは途上の生を生きている。途上故にそこには水や食べ物の不足が生じる。その不足の中でなお信じることが信仰であろう。
―ヘブル11:13-16「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです・・・彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」
・「神は本当におられるのか」、人は常にしるしを求める。「おられるのなら水を与えよ。おられるのなら病をいやせ。おられるのなら十字架から降りてみよ」。神を試すとは神を自分の召使にすることだ。これは信仰ではない。
―マルコ15:32「『メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』。一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。」
2.アマレク人との戦い
・荒野を行く民に、砂漠の遊牧民であるアマレク人が襲い掛かった。モーセは若いヨシュアに民の指揮を委ねる。民は戦い、モーセが神の杖を掲げている時は優勢になり、それを下ろすと劣勢になった。ここでの民は不平をつぶやく民ではなく、モーセの指揮下に、一丸となって戦う民である。
―出エジプト記17:8-11「アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦った時、モーセはヨシュアに言った。『男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、私は神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。』ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」
・民はモーセの杖の先に神の御手を見た。神の御手が見えている時、彼らは勇敢に戦ったが、見えなくなると弱くなった。信仰共同体の指導者は民に「神の御手」を示すのが、その役割である。
―出エジプト記17:12-13「モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。」
・モーセは祭壇を築いて勝利を神に感謝した。神が戦って下さったから勝利できた。
−出エジプト記17:15-16「モーセは祭壇を築いて、それを『主はわが旗』と名付けて、言った。『彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。』」
・この荒野での戦闘はイスラエルの記憶に鮮明に残り、以降アマレク人は悪の権化のように取り扱われる。
―申命記25:17-18「あなたたちがエジプトを出た時、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっている時、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。」
・アマレクとの戦いが示すものは、人が真剣に祈り続ける時、神は聞いてくださるということだ。もはや心も体も疲れて祈り続けることが出来なくなった時は、モーセがアロンとホルの支えを得たように、祈りを支える人を与えて下さる。ヤコブも祈ることの大切さを私たちに示す。
―ヤコブ5:13-16「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」
*参考資料:茂原バプテスト教会説教から(2015年1月18日、塩山宗満牧師)
・「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『私は、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。(17:14)」と主が言われたように、主はアマレクを天の下からぬぐい去ることを願われたのですが、それを行い、戦っていくのは人間であり、ここではヨシュアに率いられたイスラエルの民ですから、そのことがすぐに実現したわけではありません。続くモーセの言葉を見ても「彼ら(アマレク)は主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。(17:16)」とあり、アマレクが神に敵対していて、疲れ切って無防備だったイスラエルの民に襲い掛かって大虐殺を仕掛けたのは確かなのですが、それでも滅ぼされるまでにはかなりな時間がかかっています。このアマレクは最終的にユダの子孫によって滅ぼされたことが歴代誌上に記されています。このように神が願われたことは数百年掛かって成就したのです。
・「アマレクと戦っているイスラエルの民とは、私たちのことかもしれません。毎日の生活の中で、様々な問題に出会い、それをどう解決しようかと苦しんでいる私たちに、主なる神がイエス様を通して解決の道を示してくださいます。そして、それを支えているのが丘の上で祈りあっているモーセやアロン、フルといった仲間たち、すなわち今の私たちでいえば教会の仲間のことです。私たちは今年度、「ともに祈りあいましょう」という標語を掲げて歩んできました。私たちはこの標語のように祈りあってきたでしょうか。ともに祈る時を大切にしていこうではありませんか。」