江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年11月24日祈祷会(出エジプト記16章、食料の危機と信仰の危機)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.食料の危機と信仰の危機

・エジプトを出て45日目、人々はシンの荒野に入る。荒野の中で食べ物が底をついた時、民の不満がモーセと神に向かった。彼らは言う「自由があって飢えるよりは、抑圧があっても満腹の方が良かった」と。
―出エジプト記16:2-3「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。』」
・出エジプトは「偉大な救済の出来事」であったが、苦難の中にいる民には、救いの体験は一過性の出来事であり、すぐに忘れてしまう。約束の地に導かれるはずの民が、荒野に導かれ、水や食べ物が不足すれば、民の歌と踊りは止む。しかし、神はこのような民をも養われる。
―出エジプト記16:12「私は、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、私があなたたちの神、主であることを知るようになる』」
・与えられた食べ物はマナとうずらであった。マナは荒野の木になる実であり、アフリカから飛んでくるうずらは遠い距離を飛ぶのに疲れて、シナイ半島で羽を休める。神はシナイの自然を用いて民に食料を与えられた。神の賜物は異常な状況の中で与えられるのではなく、日常生活の中で与えられる。
―出エジプト記16:13-15「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。『これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。』」
・イスラエルの民が荒野で飢えた時、神から与えられた食物がマナである。見た人々は「これは何だろう=(ヘブル語マン・フー)と口にし、マナと呼ばれるようになる。ある人はエデンの園のリンゴを想定し(西アジアのウイグル・カザフスタン付近はリンゴの原産地である)、別の人は、シナイ半島に多く生息するギョリュウの樹液を固めたものであったとする。
−詩編78:17-25「彼らは重ねて罪を犯し、砂漠でいと高き方に反抗した。心のうちに神を試み、欲望のままに食べ物を得ようとし、神に対してつぶやいて言った。『荒れ野で食卓を整えることが神にできるのだろうか。』・・・主はこれを聞いて憤られた。火はヤコブの中に燃え上がり、怒りはイスラエルの中に燃えさかった。彼らは神を信じようとせず、御救いに依り頼まなかった。それでもなお、神は上から雲に命じ、天の扉を開き、彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。・・・人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。」
・新約・ヨハネ福音書記者は、このマナがイエスの捧げられた肉体を象徴的に指すと理解している。
−ヨハネ6:48〜51「私は命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」

2.神の現臨を信じられない民

・神は民に一日分だけのマナを集めよと言われた。しかし、民の一部はそれ以上に集めようとした。
―出エジプト記16:16-21「『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい・・・だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない』。彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。そこで彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。」
・与えられるのは「日ごとの糧」であるのに、それを忘れてマナの蓄積を始めた時、そこに貧富の格差が生み、人を不幸にする。「その日の糧を求めよ。神は与えてくださる。もし、手元に必要以上のものがあれば分け与えよ」と人は命じられている。
―?コリント8:14-15「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。『多く集めた者も余ることはなく、わずかしか集めなかった者も不足することはなかった』(出16:18)と書いてある通りです。」
・また、安息日には2日分のマナが与えられるから休めと言われたが、民は安息日にもマナを探しに行った。
―出エジプト記16:25-26「『今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。あなたたちは六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう』。七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。」
・安息日が与えられたのは、休みを取らないと人は生きていけないからだ。民はエジプトでは休息が与えられず苦しんだ。だから、安息日が与えられた(日本では過労自殺が年間1200件以上もあり、休めないことが人を死に追いやっている。労働基準法では、労働時間は週40時間1日8時間と定めているが、「36協定」を結び、特別条項を適用すれば、それを上回る残業が可能であり、大企業でも月100〜200時間の残業が一般化している。これは過労死危険ラインとされる月80時間の残業を上回る。
―出エジプト記6:9「モーセは、その通りイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」

3.物語が意味するもの

・日々の暮らしの中で神の祝福を見ることの出来ない者は、危機の時には信仰をなくしてしまう。だから必要以上は与えられず、訓練される。貪りを禁じる戒めは民が平安に暮らすための祝福なのだ。
―申命記8:2-7「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった・・・あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。」
・神は必要なものを与えられる。民は毎日を養われながらもそれを信じ切れなかった。私たちもそれを信じ切れないから、私たちにも平安はない。「二日分のマナを集めるな」と私たちも言われている。
―マタイ6:31-33「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神
国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
・民は「乳と蜜の流れる地」を約束されたが、導かれたのは「荒涼たる砂漠」だった。約束はなされたが、現実の生活は苛酷だ。約束という言葉だけでは人は生きることが出来ない。食料の不足は信仰の危機をもたらす。その中で神は一日分の食料を賜物として与え、必要な水は岩から湧き出る。聖所は荒野のただ中にあるのだ。アーネスト・ゴードンは自らの体験を通じて語る「神の国はここにあった」と。
−アーネスト・ゴードン「死の谷を過ぎて」から「第二次世界大戦下、インドシナ半島を占領した日本軍は、ビルマへの陸上補給路確保のために、連合軍捕虜と現地人労務者を使って、泰緬鉄道を建設する。18ヵ月の突貫工事で400キロの鉄道が敷設されるが、1万6千人の捕虜と6万人の労務者の生命が犠牲となった。クワイ河流域に設けられた収容所の連合軍捕虜の死亡率は30%近くに上り、著者ゴードンは『飢餓、疲労、病気、隣人に対する無関心、私たちは家族から捨てられ、友人から捨てられ、自国の政府から捨てられ、そして今、神すら私たちを捨てて離れていった』(122P)と嘆く。著者は収容所生活の中で、マラリヤ、ジフテリヤ、熱帯性潰瘍等の病気に次々に罹り、「死の家」に運び入れられる。粗末な竹のベッドに横たわり、人生を呪いながら命が終わる日を待っていた著者のもとに、キリスト者の友人たちが訪れ、食べずにとっておいた食物を食べさせ、膿を出して腐っている足の包帯を替え、体を拭く奉仕をする。彼らの献身的な看護によって、著者は次第に体力を回復し、彼らを動かしている信仰に触れて、無神論者だった彼が聖書を読み始める。彼が見出したのは「生きて働いておられる神」だった。『神は私たちを捨てていなかった。ここに愛がある。神は私たちと共におられた・・・私はクワイ河の死の収容所の中に神が生きて、自ら働いて奇跡を起こしつつあるのをこの身に感じていた』(176P)。そして彼自身も仲間たちと共に奉仕団を結成して病人の介護を行い、竹やぶの中で聖書を共に読み、広場で主日礼拝を始める。死にゆく仲間の枕元で聖書を読み、祈り、励まし、その死を看取る。無気力だった収容所の仲間たちから笑い声が聞こえ、祈祷会が毎晩開かれようになり、収容所に賛美の歌声が聞こえてくる。彼はその時、思う『エルサレムとは、神の国とは結局、ここの収容所のことではないか』(202P)。」

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