1.世にあって世の欲に巻き込まれるな
・箴言は22章17節から第三集「賢人の言葉」が始まる。これは官吏や裁判官、祭司の子弟等を教育する宮廷学校で教えたものが基本になっている。23章の始めで教えられるのは、王と共に食卓に着く時の心得である。「自分の喉に刃を当てた気持ちで臨め」と語られる。場所をわきまえよとの意味か。
-箴言23:1-3「支配者と共に食卓に着いたなら、何に直面しているのかをよく理解せよ。あなたが食欲旺盛な人間なら、自分の喉にナイフを突きつけたも同じだ。供される珍味を貪るな、それは欺きのパンだ」。
・次に「富に貪欲になるな」と語られる。王の官吏になれば様々な利権を手にする機会もあるかも知れないが、それは「あなたを滅亡に招く」と教えられる。日本は利権社会であり、企業や業界団体は政治家への献金を通して制度や税制を有利な方向に変えようとする。法定法人税率は38%であるが、大企業は様々な租税特別措置(試験研究費減税、投資減税、受取配当金益金不算入等)を活用して実効税率は低い。トヨタの場合、2013年度法定納税額2524億円-輸出消費税還付金2296億円=実質納税額228億円になっており、輸出企業は消費税率が上がるほど納税額が少なくなる。経団連は「法人税減税・消費税増税」を政策提言するが、それは「富に貪欲」な提言である。箴言の教えることは現代でも大事なことだ。
−箴言23:4-8「富を得ようとして労するな、分別をもって、やめておくがよい。目をそらすや否や、富は消え去る。鷲のように翼を生やして、天に飛び去る。強欲な者のパンを食べようとするな。供される珍味を貪るな。彼はその欲望が示す通りの人間だ。「食べるがよい、飲むがよい」と言っても、心はあなたを思ってはいない。あなたは食べたものを吐き出すことになり、あなたが親切に言ったことも台無しになる」。
・地境を移したり、孤児の畑を犯すなと教えられる。貪欲な貴族たちが他人の農地を自分のものにする等の事例が多くあったのであろう。箴言記者は語る「貧者を贖う神はあなたと争うであろう」と。
−箴言23:9-11「愚か者の耳に語りかけるな、あなたの見識ある言葉を侮るだけだから。昔からの地境を移してはならない。孤児の畑を侵してはならない。彼らを贖う神は強く、彼らに代わってあなたと争われるであろう」。
・「ナボトのブドウ畑」の逸話が示すことは、王でさえも不正な行為をすれば神がそれを咎められるということだ。北王国のアハズ王はナボテのぶどう畑を欲し、ついにはナボテを殺して土地を奪う。その結果与えられたのは王朝の滅亡であった。この神の摂理を信じる者は、世の不正に対してどうすべきなのだろうか。「世にあって世の欲に巻き込まれない」だけで良いのだろうか。
−列王記上21:17-19「その時、主の言葉が・・・エリヤに臨んだ『直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。彼に告げよ。“主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか・・・犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる”』」。
2.若者を諭すのを控えるな
・12節から若者への諭しの重要性が語られる。必要があれば、体罰をもためらうなと著者は語る。
−箴言23:12-14「あなたの心を諭しの言葉に、耳を知識の言葉に傾けよ。若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。鞭打てば、彼の魂を陰府から救うことになる」。
・また悪を行う者が栄える現実を見て羨むなと語られる。利得を求めず、主を求めよ、そうすればあなたの未来は開けると著者は語る。
−箴言23:15-18「わが子よ、あなたの心が知恵を得れば、私の心は喜び祝う。あなたの唇が公正に語れば、私のはらわたは喜び躍る。罪人らのことに心を燃やすことはない。日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい。確かに未来はある、あなたの希望が断たれることはない」。
・世には多くの不正や利得がある。その現実を私たちは知るべきだ。同時にその現実に巻き込まれない事が必要だ。カール・バルトは「片手に聖書を、他の手に新聞を持って神学する」と繰り返して語った。バルトの神学は、時代関連的に、状況関連的に読まれ、理解されなければならない」(「カール・バルトと現代」、小林圭治編)。またバルトは「イエス・キリストは“マルクス主義者”のためにも死に給うたのだが、また“資本主義者”と“帝国主義者”と“ファシスト”のためにも死に給うた」(「カール・バルトの生涯」、E.・ブッシュ)と語る。ヘルムート・ティーリケは、第二次大戦中、空爆された都市の教会で、聴衆に語り、その説教を記録した本が「主の祈り―世界を包む祈り」として出版されている(新教新書)。人と人とが殺しあう戦争の最中に、神を信じること、祈ることにどんな意味があるのかを教えた。エミール・ブルンナーは第二次世界大戦が勃発した1939年に、スイス・チューリヒのフラウミュンスター教会で語った説教を「我は生ける神を信ず〜使徒信条講解説教」(新教新書)として公にした。彼は、危機の時にこそ、弱い者を強くし絶望する者に希望を与える生ける神を固く信じ、生きることを指し示す。これらの先達に学び、「御言葉を生きる共同体」を現代において展開することの中に、教会再生の鍵があるのではないか。
3.大酒を飲むな
・大酒を飲むな、大酒を飲む者は身を持ち崩すと語られる。酩酊や大食は裕福な家庭の若者たちには、大いなる誘惑であった。
−箴言23:19-21「わが子よ、聞き従って知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐに進むようにせよ。大酒を飲むな、身を持ち崩すな。大酒を飲み、身を持ち崩す者は貧乏になり、惰眠を貪る者はぼろをまとう」。
・29−35節もまた飲酒の弊害が列挙される。
−箴言23:29-35「不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か、いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か、理由なく傷だらけになっているのは誰か、濁った目をしているのは誰か。それは、酒を飲んで夜更かしする者。混ぜ合わせた酒に深入りする者。酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが、後になると、それは蛇のようにかみ、蝮の毒のように広がる。目は異様なものを見、心に暴言をはき始める。海の真ん中に横たわっているかのように、綱の端にぶら下がっているかのようになる。『打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう』」。
・ジョン・ウェスレーが18世紀にイギリスで信仰覚醒運動に立ち上がったのは、炭鉱や工場で働く労働者たちが、当時流行したジンに溺れ、すさんだ生活をするのを目にしたからであった。この禁酒運動からメソジスト教会が生まれた。明治の山室軍平が日本救世軍を創設し、廃娼運動・禁酒運動を始めたのも、当時の飲酒の弊害の大きさに衝撃を受けたためであろう。今日、日本の教会が取り組むべきは何なのだろうか。
-イザヤ56:11-12「この犬どもは強欲で飽くことを知らない。彼らは羊飼いでありながらそれを自覚せず、それぞれ自分の好む道に向かい、自分の利益を追い求める者ばかりだ。『さあ、酒を手に入れよう。強い酒を浴びるように飲もう。明日も今日と同じこと。いや、もっとすばらしいにちがいない』」。