1.洪水伝承
・洪水伝説は世界各地に伝わる。おそらくは氷河期末期に世界各地で起こった大洪水の記憶が伝説となって各地に残ったのであろう。バビロニアにも洪水伝承があり(ギルガメシュ叙事詩等)、創世記記事との類似から、聖書学者の多くは、ギルガメシュ叙事詩がノアの洪水物語の原型になったと考えている。
・洪水物語が二つの資料により構成されているのは、文献学から明らかである。J資料(ヤハウェ資料)は紀元前10世紀ごろの王国時代に書かれ、神の名はヤハウェである(新共同訳では主)。他方P資料(祭祀資料)は紀元前6世紀のバビロン捕囚時代に書かれ、神の名はエロヒーム(新共同訳では神)である。6章は1−8節がJ資料、9−22節がP資料、7章は概ねJ資料である。洪水伝承を受けたJ資料が先に成立し、その改訂・増補版としてP資料が成立した。洪水物語は史実というよりは、伝承を受けた人々の解釈史である。
・6:1-4は古代からの伝承で、神の子とは「神のかたち」に造られた人を指すのであろう。人が欲望の赴くままに異性と性的関係を結ぶ。美しい女を権力者たちが自分のものにする。性が乱れた時、社会が乱れる様を描く。
−創世記6:1-2「さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」。
・J資料記者は洪水の背景に罪(性の乱れ)を見る。おそらくは多くの妻妾を抱えたダビデ・ソロモン王時代の風潮を批判しているのであろう。
―創世記6:3-4「主は言われた『私の霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから』。こうして、人の一生は百二十年となった。当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった」。
・神は天上に鎮座される神ではない。神は人間を創造し、彼らの罪に胸を痛め、造ったことを後悔される神である。神は創造者を拒否する人間をもその自由に任せたもう。そして人は悪を選択した。ここに神の悔いが、神の痛みが生ずる。
−創世記6:5-7「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた『私は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する』」。
・神の裁きは人の滅亡ではなく、人の再生である。だから神はノアを残され、彼を通しての人類再創造をなされたとJ資料記者は考察する。
−創世記6:8「しかし、ノアは主の好意を得た」。
2.神は人を造ったことを後悔された
・6:9からP資料が始まる。アダムの罪(男女の罪)がカインの罪(兄弟の罪)を招き、カインの罪がレメクの罪(隣人に対する罪)を招き、罪が全人類に及んだ。この部分を書いた捕囚期の祭司たちは、罪の裁きとしての洪水の上に、自分たちへの裁き(国の滅亡=バビロンへの捕囚)を見ている。
−創世記6:11-13「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた『すべて肉なるものを終わらせる時が私の前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、私は地もろとも彼らを滅ぼす』」。
・しかし神は一人の正しい者(ノア)を見て、彼を残される。義なるが故に自分の創造された世界を滅ぼされる神は、愛ゆえに人を許される神でもある。そのため、神は一人の人を残して、世を再創造される。預言書には、「残りの者による再建」という思想が繰り返し見られる。捕囚期の祭司たちは、ノアの救いの中に自分たちの救済への希望を込めている。
―エレミヤ書29:14「私は捕囚の民を帰らせる。私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」
・このノアはレメクの子だ(5:29)。七十七倍復讐すると宣言した男の子だ。そのレメクが自分たちの罪からの贖いを求めて、子にノア(慰め)と名付ける。
−創世記5:28-29「レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた」。
・ノアは神が命じられるままに箱舟を作る。創世記記者(P資料記者)は箱舟の建設の中にエルサレム神殿の再建、捕囚からの解放を祈願している(箱舟の大きさは神殿と同じである、エゼキエル40−43章、列王記上6−7章)。
−創世記6:15-16「次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ(135メートル)、幅を五十アンマ(22.5メートル)、高さを三十アンマ(13.5メートル)にし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい」。
・箱舟にはすべての生き物のつがいが一組ずつ入るように命じられた。
−創世記6:17-22「『見よ、私は地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。私はあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい』。ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」。
・他方創世記7章では清い動物は七つがい、清くない動物は一つがいとされる。J資料がここからまた始まる。
−創世記7:1-3「主はノアに言われた。『さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけは私に従う人だと、私は認めている。あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように』」。
3.新約聖書に見るノアの理解
・イエスは洪水を終末の審きの出来事と考えられた。
−マタイ24:37-39「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。
・ペテロ書はバプテスマを受ける(箱船に入る)ことを、裁き(洪水)からの救済と理解する。
−1ペテロ3:20-21「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」
・ヘブル書はノアを、「見ずに信じた者」と理解している。
−ヘブル11:7「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。