江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年1月8日祈祷会(箴言17章、愛を求める人は罪を覆う)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1. 乾いたパンの一片しかなくとも

・箴言は人がどのような富を得ようとも、家庭が平和でなければ幸福ではないと繰り返し警告する。
-箴言17:1「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりよい」。
-箴言15:17「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」。
・経済的に豊かになっても幸せにはなれない。世界幸福度調査において、日本の幸福度は低い(国連幸福度調査2012年:日本44位/156カ国、OECD幸福度調査2012年:日本21位/36カ国)。吉中季子氏調査(名寄市立大学)によれば、幸福度は社会的孤立度と反比例しており、日本の社会的孤立度(日常生活の中で自分以外の人と過ごす時間が殆ど無い)は15.3%とずば抜けて高く(アメリカ3.1%、デンマーク3.3%、ドイツ3.5%、韓国7.5%等)、孤立度の高い国の幸福度は低い。正に箴言や詩篇の教える通りである。
-詩篇133:1-3「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された、祝福と、とこしえの命を」。

2.愛を求める人は罪を覆う

・箴言の難しさは、訳によって微妙に意味が変わってくることだ。箴言17:9も訳文の違いが大きい。ヘブル語は母音表記がなく、解釈者によって意味が異なってくるからだ。
-箴言17:9 (新共同訳)「愛を求める人は罪を覆う。前言を翻す者は友情を裂く」。
-箴言17:9 (口語訳)「愛を追い求める人は人の過ちを許す。人のことを言いふらす者は友を離れさせる」。
-箴言17:9(新改訳)「背きの罪を覆う者は、愛を追い求める者。同じことを繰り返して言う者は、親しい友を離れさせる」。
・ただ全体としての意味はつかめる。箴言17:13-15も同趣旨の言葉である。
-箴言17:13-15「悪をもって善に報いるなら、家から災難は絶えない。いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。悪い者を正しいとすることも、正しい人を悪いとすることも、共に、主のいとわれることである」。
・悪に対してどう対処するか。イエスは「抵抗するな」と言われた(マタイ26:52「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」)。パウロはそれを一歩進めて、「悪に対して善で報いよ」と語る。箴言の精神は新約にも継承されている。
-ローマ12:20-21「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・聖書の言葉の文字通りの実行は難しい。一人のNYに住む無神論ユダヤ人記者が1年間聖書の戒律を無条件に実行した記録が話題になっている(A.J.ジェイコブズ「聖書男」、阪急コミニュケーションズ、2011年)。下に書評を記すが、無条件に聖書の教えに取り組む大事さを伝えていると思えた。
-聖書男(原題:聖書に生きた1年間)書評から「リベラルなユダヤ系アメリカ人で編集者を本業とする著者が、聖書に書かれている数百にも及ぶ決まり事を守りながら一年間生活した記録。髭を切らない、嘘をつかない・・等わかりやすいところから始まり、何でも体験しようと鶏の生け贄の儀式に参加したり、エルサレムを旅行して羊飼いを体験したり、自分とは全く違う考えにも触れようとキリスト教原理主義者やエホバの証人にまでインタビューを敢行。当初は「現代社会で聖書の決まりを守るのがどれだけ大変かつ迷惑で滑稽か」を記そうとしていた筆者が、少しずつ神聖なもの=生命に対して敬虔になっていく。形から入ろうとして心まで変化する様が日を追うごとにはっきりしてくる」。

3. どのような時にも友を愛せよ

・人生の最大の課題は次々に襲いかかる苦難にどう対処するかであるが、どのような時にも共にいてくれる友の存在ほど有難い者はない。
−箴言17:17「どのようなときにも、友を愛すれば、苦難の時の兄弟が生まれる」。
−箴言17:22「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる」。
・しかし人の心は移ろいやすい。ある時の友が時間の経過とともに友ではなくなる。パウロは「四方から苦しめられても行き詰まらず」、「途方に暮れても失望しない」と言い切ることが出来た。それはイエスの「死(ネクロス、十字架にかけられたままのイエス)」を身にまとっていたからだと言う。
−第二コリント4:8-11「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」。
・福音には人を立ち上がらせる力がある。しかし多くの人はそれに気づかない。パウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のようになった」(第一コリント9:19-23)と語った。私たちは日本人に語る言葉を見出す必要がある。そのためには教義的事柄(受肉、三位一体、贖罪等、それらは4世紀以降に確立した西洋教会の伝統である)ではなく、生きた神学(福音がどれほど人を生かすかの)を語るべきであろう。その一つがカトリック教会の重視するケノーシス(自己無化)かも知れない。それは「祈り、かつ働く」方向性である。
−粕谷甲一・第二バチカン公会議と私たちの歩む道から「己を空しくして相手のことを中心に自分の行動を決めていく。それは人間の自然性に反しているから、祈りとか秘蹟なしには難しい。マザーテレサの実行した二つの聖体拝領(朝出かける前に聖体=ミサのパンをいただき、町に出て仕えることによって別の聖体をいただく)の中にその秘訣があるのではないか」。

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