江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年10月22日祈祷会(創世記14章、メルキゼデクの祝福)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.バビロニア王たちのカナンへの侵略

・メソポタミア(シンアルの地)には世界最初の文明が生まれ、地域を統合するバビロニアやエラムその他の王国が生まれ、その勢力はカナン地方にも及んでいた。カナンは豊かな穀倉地帯であり、メソポタミア、シリア、パレスチナを結ぶ三日月形をした地帯は、最も早く農耕文明が成立した地域で、肥沃な三日月地帯と呼ばれていた。またメソポタミアとエジプトを結ぶ交通の要所であり、当時はエラム王国の勢力圏であったが、現地のソドムやゴモラ等の都市国家群は貢納を嫌って反乱し、そのためメソポタミア連合軍が攻め寄せてきたと創世記14章は記す。
−創世記14:1-4「シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアルが、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アドマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラ、すなわちツォアルの王と戦った時、これら五人の王は皆、シディムの谷、すなわち塩の海で同盟を結んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに支配されていたが、十三年目に背いたのである」。
・圧倒的なメソポタミア連合軍の兵力の前にカナン連合軍は敗北し、町は侵略され、多くの財宝や捕虜が奪い去られた。その中にソドムに移住していたロトもいた。
−創世記14:8-12「そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アドマの王、ツェボイムの王、ベラすなわちツォアルの王は兵を繰り出し、シディムの谷で彼らと戦おうと陣を敷いた。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアル、シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨクの四人の王に対して、これら五人の王が戦いを挑んだのである。シディムの谷には至るところに天然アスファルトの穴があった。ソドムとゴモラの王は逃げるとき、その穴に落ちた。残りの王は山へ逃れた。ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、 ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた」。
・親族のロトが捕らえられたと聞いたアブラハムは、一族郎党を引き連れて救済に向かう。
―創世記14:13-16「逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。アブラムは当時、アモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。夜、彼と僕たちは分かれて敵を襲い、ダマスコの北のホバまで追跡した。アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻した」。

2.メルキゼデクの祝福

・ソドム王は捕虜や財産を取り戻したアブラハムを迎え、歓迎する。そこにはサレムの王であり、祭司でもあったメルキゼデクもアブラハムを迎えて祝福した。
―創世記14:17-20a「アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来た時、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った『天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神が讃えられますように』」。
・メルキゼデクはカナンの祭司であり、カナンの神「エル」(いと高き神)がアブラハムを助けて敵を打ち破る力を与えたことを祝福する。この出来事は詩編の中で引用され、そこではダビデ王朝こそ主のみ旨にかなう王であると讃えられている。旧約の伝承では、メルキゼデクは異教徒であるが、異なる名の下でアブラハムと同じ創造主なる神を礼拝し、彼のヘブル人の後継者たち、ダビデ王朝の諸王たちを祝福した大祭司であったと理解されている。
−詩編110:4-5「主は誓い、思い返されることはない。『私の言葉に従って、あなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(私の正しい王)。主はあなたの右に立ち、怒りの日に諸王を撃たれる』」。
・このメルキゼデクの祝福に対してアブラハムは戦利品の十分の一を彼に捧げた。
−創世記14:20b[アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った」。
・創世記14章に突然現れるメルキゼデクは不思議な人物である。彼は義(ゼデク)の王(メルク)と呼ばれ、サレムの王である。彼が礼拝した「いと高き神(エル)」はやがてアブラハムの神(ヤハウェ)の別名になり、彼の地サレムは神の平和(エル・サレム)と呼ばれるようになる。そのメルキゼデクについてヘブル書は7〜9章にわたって、主イエスを予表するものとして描く。
−へブル7:1-4「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず『義の王』、次に『サレムの王』、つまり『平和の王』です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです」。
・キリスト教と対立するユダヤ教徒の間では、イエスはレビ族の出身ではないから正統な祭司ではないとの批判があった。神殿での祭儀を執り行うのはレビ族の祭司のみであったからだ。しかしヘブル書は「アブラハムの末からレビが生まれ、レビ族からモーセとアロンが出たとすれば、レビ人もまたアブラハムの子孫としてメルキゼデクに捧げものをし、彼から祝福を受けたことになる」と主張する。イエスはアブラハムも礼拝した真の祭司(メルキゼデク)の後継であり、それ故にレビ族の祭司に勝るとヘブル書は主張する。
―ヘブル7:11-15「もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば・・・一体どうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう・・・私たちの主がユダ族出身であることは明らかです・・・このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです」。
・私たち日本人には理解しにくいユダヤ教のラビ的弁証である。他方、カトリック聖イグナチオ教会の壮年会はメルキゼデク会を結成し、様々な活動をしている。会では「現代社会に生きる私達が出会う様々な問題について学び、イエス・キリストの視座で見つめ直し、自分の問題として受け取り、友と分かち合い、福音的視点から問題への対応方法を考え、自分なりの手段、方法による具体的行動に繋げたいと考え、現代社会を取り巻くさまざまな問題についての講演会や学習会を開催している。新しいメルキゼデクの働きである。
−難民の声を聞こう!日時:2015年10月28日(水)午後6時45分〜8時30分、お話:難民支援協会(JAR)支援事業部コーディネータ田多晋氏、当事者:ガブリエルさん(ナイジェリア)、セルゲイさん(ロシア)他  

3.ソドム王の提案とアブラハムの拒否

・ソドムの王はアブラハムに戦利品を山分けしようと提案するが、アブラハムは何も要らないと断る。ソドムの王はいかなる申し出もする立場にはなく、アブラハムは軽蔑を込めてそれを王に気づかせている。
―創世記14:21-23「ソドムの王はアブラムに『人は私にお返しください。しかし、財産はお取りください』と言ったが、アブラムはソドムの王に言った『私は、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴紐一本でも、決していただきません。アブラムを裕福にしたのは、この私だと、あなたに言われたくありません。私は何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、私と共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください』」。
・13章で、アブラハムとロトは分かれてそれぞれの道を歩んだ。ロトが選んだのは豊かな低地であったが、メソポタミア勢力との軋轢にロトが巻き込まれ、アブラハムはロトのために戦う。その後、ソドムは神によって滅ぼされるが、アブラハムはその時もロトを助ける(18−19章)。やがてロトは二人の子が与えられ、それぞれモアブ人とアモン人の祖となる。そのモアブ人ルツがボアズと結婚し、ダビデへの系譜、イエス・キリストの系譜へとつながっていく。不思議な結びつきがそこにある。ナザレのイエスはアブラハムの直系でもあり、ロトの傍系でもある。
−マタイ1:1-6「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを・・・サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた」。
・創世記14章でアブラハムが初めて「ヘブライ人」と呼ばれている(14:13)。ヘブライはメソポタミア語ハビルからくる(当時の移住民、遊牧民を指す)。申命記26章の告白において、イスラエルの先祖は「さすらいの一アラム人」であったと言われている。イスラエルの先祖たちは遊牧生活をしていたアラム人だった。アラム人の集団は、二つの移動群の波を為して沃地に侵入した。第一波は紀元前19・18世紀頃、アラビア半島から北に向かって流れだし、メソポタミアと沃地の周辺をなすシリアに定着し、そこで新しい支配層を形成した。聖書で「カナン人」、「アモリ人」と言われている人々である。第二波は紀元前14・13世紀に活動し、これに乗ってエドム人、モアブ人、アンモン人、そしてイスラエル人などがパレスチナの沃地に侵入した。創世記においてアブラハムがユーフラテス河の下流の古代都市国家ウルを出て、上流のハランに移り、さらにカナンに移動した記事は、このアラム人の移動と関係があるであろう。イスラエルの先祖たちは、社会学的に見れば、牧草を追って移動する半遊牧民に属するものであった。彼らの生活状況は、沃地の周辺部をさすらいながら放牧し、小家畜の群れを飼育して生活し、乾期になると家畜の食物を求めて沃地に入った。そのようにして彼らは次第にカナンの地に定住していったものと思われる。

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