江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年8月21日祈祷会(ネヘミヤ記12章、城壁の奉献式)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.城壁奉献

・ネヘミヤ12章は城壁奉献式の模様を記す。前445年のことである。最初に奉献式準備のためにレビ人が集められたと記されている。
-ネヘミヤ記12:27-29「エルサレムの城壁の奉献に際して、人々は、あらゆる所からレビ人を求め、エルサレムに来させて、感謝の祈りと、シンバルや竪琴や琴に合わせた歌をもって、奉献式と祝典を行おうとした。詠唱者たちは、それぞれエルサレム周辺の盆地、ネトファ人の村々、ベト・ギルガルおよびゲバやアズマベトの田舎などから集まって来た。詠唱者たちは、エルサレムの周辺に村を作って住んでいた」。
・捕囚期、また帰還後も長い間(150年間)神殿礼拝は行われず、神殿祭儀を執り行うレビ人も生活のために帰農していたのであろう。また祭司も祭司としての生活を立てる事ができなかった。彼らが本来の役割を果たせるように呼び集められたことは、神殿を中心にした礼拝体制(同時に国家体制)の再建を意味した。
-ネヘミヤ記12:30「祭司とレビ人は身を清めたうえで、民と城門と城壁を清めた」。
・31節からネヘミヤ自身の手記による奉献式の模様が記される。最大のハイライトは二組の聖歌隊、一組はエズラに導かれ、他の一組はネヘミヤに導かれた聖歌隊が右と左に別れて城壁を半周し、最後に神殿で落ち合う儀式であった。
-ネヘミヤ12:31-40「私は、ユダの長たちを城壁に上らせ、二つの大きな合唱隊を編成した。一隊は城壁の上を右へ、糞の門に向かって進んだ・・・書記官エズラは彼らの前を行った・・・他の一隊は左に向かった。私は他の半数の人々と共に彼らに続いた。一行は城壁の上を行き、炉の塔から広壁、エフライムの門から古い門、魚の門、ハナンエルの塔、ハンメアの塔から羊の門まで進み、警備の門で止まった。こうして二隊は、神殿の中に立ち、私も役人の半数と共にそこにいた」。
・聖歌隊は祭司のラッパの音を合図に讃美の歌を歌い、その歌声はエルサレム中に響いた。
−ネヘミヤ12:41-43「ラッパを手にした祭司はエルヤキム、マアセヤ、ミンヤミン、ミカヤ、エルヨエナイ、ゼカルヤ、ハナンヤ。更にマアセヤ、シェマヤ、エルアザル、ウジ、ヨハナン、マルキヤ、エラム、エゼルは詠唱者として歌い、イズラフヤが彼らの監督であった。その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた」。
・この時何が歌われたかは定かではない。ただ詩篇48編もこの頃に出来たのではないかとされている。
-詩篇48:2-15「大いなる主、限りなく賛美される主。私たちの神の都にある聖なる山は高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される・・・万軍の主の都、私たちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる。神よ、神殿にあって私たちはあなたの慈しみを思い描く。神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている・・・シオンの周りをひと巡りして見よ。塔の数をかぞえ、城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ。後の代に語り伝えよ、この神は世々限りなく私たちの神、死を越えて、私たちを導いて行かれる、と」。

2.神殿礼拝の確立

・こうして長い間途絶えていた神殿礼拝が再開され、祭儀の執行があるべき姿に戻り、聖職者はその任務を果たし、民も聖職者を支えるための貢物を喜んで納めた。ここにユダヤ教が成立した。
−ネヘミヤ記12:44-47「その日、礼物と初物と十分の一の供出物を蓄える収納庫の監督が任命された。こうしてそこに、律法が定めているように、祭司とレビ人の生活の糧を、町々の耕地から徴集して納めた。実にユダの人々は、祭司とレビ人の働きを喜んでいた。祭司とレビ人は神への務めと清めの務めを守り、詠唱者と門衛はダビデとその子ソロモンの定めによく従った。ダビデとアサフがいた昔の時代のように、詠唱者の頭がいて、神への賛美と感謝の歌をつかさどった。ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代のイスラエルの民は皆、毎日詠唱者と門衛に生活の糧を提供した。また、レビ人には奉納物を与え、レビ人はその奉納物をアロンの子らに分け与えた」。
・しかしそれから500年が経ったイエス時代には神殿礼拝は形骸化し、人々は捧げ物をすれば救われるとして、神信仰は形式化して行った。だからイエスは神殿改革を行われ、そのために祭司たちにより殺された。
-マルコ11:15-19「一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた『こう書いてあるではないか。私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった』。祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた」。
・このイエスの十字架の上に教会が建てられた。しかし時間の経過と共にそれは堕落し、1517年宗教改革が為され、プロテスタント教会が生まれた。しかしそれから500年、プロテスタント教会もその垢をふるい落とすべき時になっている。礼拝は常に刷新することなしには、正しく神を拝する事はできないのである。

*ネヘミヤ記12章参考資料「新しい聖書の読み方を求めて」(川口通治・修士論文序文から)

・今日、キリスト教の教えが日本社会の中で訴求力を無くしていると思われる。19世紀以降日本にキリスト教が伝えられてから、キリスト教会は明治・大正・昭和とそれぞれの時代で社会を指導する人物を輩出してきた。しかし平成になった現在、日本を覆うのは、キリスト教を含めた既成宗教一般に対する「反感」、あるいは「無視、無関心」である。その中で、日本のキリスト教会の教勢は落ち、衰退傾向を強めている。どうすれば日本のキリスト教会は再生できるのか、どうすれば聖書の教えが人々への訴求力を回復できるのか。
・日本の教会は「内なる問題」と「外なる問題」の双方への対応の遅れから、現代社会に対する訴求力を失い始めていると思われる。「内なる問題」とは、教会が「聖書学」と真剣な対話をせずに、従来通りの「ただ信ぜよ」という姿勢をとり続けたことである。教会を構成する者の内、牧師等の教職にある者は、概ね聖書の歴史的・批判的研究の成果を受け入れ、その方向で聖書を理解しようとしているが、信徒の多くは、聖書学の研究成果を聞く準備は出来ていない。あまりにも長い間、聖書の物語は「字義通りに起こった史実」だと教えられ、処女懐胎や奇跡、最後の審判、再臨等の教理を、「信じることが信仰であり、疑いを持つのは不信仰だ」と教育されて育ってきたからである。しかし科学主義、合理主義の教育を受けて育ってきた現代人には、このような教理はもはや説得力を持たない。教会においては、今なお伝統的教理の枠内において説教が語られる場合が多く、その説教は観念的で人々に届きにくいように思える。
・信徒として長年の教会生活をしているある婦人は、教会の説教について次のような感想をレポートに記した。「キリスト者は、世俗の小説を読むような感覚では聖書を読まない。聖書には『読み方』があるので、好き勝手に読んだり、思ったままの感想を述べたりするのはよくない、神の言葉であるから軽々しく扱ってはいけない、勝手に解釈をしてはいけないと、教えられてきたからである。聖書には決められた読み方の線路(釈義)があって横道へ逸れる(自由に理解する)ことが禁じられているのだから、迂闊なことを言ったり思ったりせず、聞いた言葉をそのまま信じていこうと思うのがふつうの感覚である。信徒は聖書を楽しく読むのをやめ、聖書物語は色彩を失う。信徒はやがて、聖書箇所と説教題を見ただけで、話の内容の見当がつくようになる」。
・教会において、説教は「神の言葉を聞く」場と位置づけられ、礼拝の中心である。その説教が「聞かなくとも予想できる」語りになり、「何の感動も生まない」お話になっているとしたら、人々は教会に行く意味を無くしてしまうであろう。もう一つの課題、外なる問題とは「日本的無神論」との対話を怠ったことである。現代人は、洋の東西を問わず、科学主義教育を受けて、「神なしでも生きていける」、あるいは「神を語ることは迷信であり、愚かである」と考える人々が多い。長年牧師をしてきた山田隆は述べる「神を信じるとはどういうことか、それは本当に必要なのか。もし必要であるとしても、現代人にとってどういう神をどのように信じるのか。多くの現代人が神を信じるなどということにほとんど意味を見いだせなくなっている」。このような時代の中で、教会はどうすべきか、山田は言う「キリスト教徒にとっても、伝統的な教会の教義をうのみにして、型にはまった神信仰に何の問題も感じることなく、形の上だけの信仰生活にとどまっているわけにはいかない。神信仰を改めて問い直して見なければならない」(山田隆「現代に聖書を読む」から)。
・日本の教会は変革を求められている。かつて生み出された様々な教義や信条を見直し、近代聖書学の成果を取り入れた新しい視点で聖書を再解釈し、無感動、無関心の日本人に伝わるメッセージを取り戻さなければいけない。聖書は2000年間の歴史の審判を超えて読み継がれて来た書であり、聖書の描き出す人間の実存は時と場所を超えて真実であり、それ故、「聖書の現代語化、伝わる言葉化」が為された時、聖書は日本の人々の存在の根底に語りかける力を持つと思える。

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