1.異邦人との結婚に対するエズラの嘆き
・エズラがバビロンから帰国して最初に気付かされたことは、エルサレムの民が異民族の娘たちと交じり合い、宗教的純粋性が失われつつあることだった。それは「聖なる種族」の維持を願うエズラには考えられない、恥ずべきことと思えた。
−エズラ記9:1-3「長たちが私のもとに来て、言った『イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って、彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです』。私はこのことを聞いて、衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼう然として座り込んだ」。
・イスラエルは聖なる種子(イザヤ6:13)、聖別された民とされ、他民族との結婚を禁じられていた。それは他民族との婚姻を通じて偶像崇拝等の悪習が入り込むことを防止するためであった。
−申命記7:1-4「あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い・・・彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離して私に背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである」。
・申命記は捕囚時代に書かれている。異郷での民族維持のためには、異教徒との結婚を禁止することが必要だった。異民族との混淆が国の滅亡を招いたと祭司たちは理解した。出エジプト記の記事もそれを反映している。
−出エジプト記34:15-16「その土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがその神々を求めて姦淫を行い、その神々に生け贄をささげるとき、あなたを招き、あなたはその生け贄を食べるようになる。あなたが彼らの娘を自分の息子にめとると、彼女たちがその神々と姦淫を行い、あなたの息子たちを誘ってその神々と姦淫を行わせるようになる」。
・バビロンで律法を学び、それをエルサレムに布告するために帰国したエズラにとって、雑婚は神の前に恥ずべき罪であった。だから彼は神の前に悔い改めてひれ伏す。
−エズラ9:6-7「わが神よ、御前に恥じ入るあまり、私は顔を上げることができません。私たちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪科の中にあります。その罪悪のために、私たちは王も祭司もこの地の王の支配下に置かれ、剣にかけられ、捕らわれ人となり、略奪され、辱められてきました。今日、御覧のとおりです」。
・今日の私たちは軽々しくエズラを笑うことはできない。同族婚の維持に民族の盛衰がかかっていると捕囚後の新国家創設者は考えたのである。
−エズラ9:10-12「私たちの神よ・・・私たちは御命令に背いてしまったのです。御命令は、あなたの僕、預言者たちによってこう伝えられました『これから入って所有する地は、その地の住民の汚れによって汚された地である。そこは、その端から端まで彼らの忌まわしい行いによって汚れに満たされている。それゆえ、あなたたちの娘を彼らの息子に嫁がせたり、彼らの娘をあなたたちの息子の嫁にしたりしてはならない・・・』と」。
・やがてエズラは民を集め、「異民族との結婚の禁止」と「結婚している者は妻子を離別する」ように求めた。
−エズラ10:10-12「祭司エズラは立ち上がり、彼らに言った『あなたたちは神に背いた。異民族の嫁を迎え入れて、イスラエルに新たな罪科を加えた。今、先祖の神なる主の前で罪を告白し、主の御旨を行い、この地の民からも、異民族の嫁からも離れなさい』。会衆はこぞって大声で答えた『必ずお言葉どおりにいたします』」。
2.この記事をどのように読むか(雑婚問題、離婚の強制をどう理解するか)
・聖書の神は全ての民族の神であり、他民族の娘との結婚を必ずしも否定しない。ダビデの曾祖母はモアブの女ルツであった。
−ルツ記4:10-17「私はマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします・・・あなたがたは、今日、このことの証人になったのです・・・近所の婦人たちは、ナオミ(の嫁ルツ)に子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である」。
・捕囚期、および帰還後の国家形成期においては、同族婚により民族維持を願うのはやむを得ないかもしれない。しかし、この姿勢がやがて異邦人蔑視、排斥へとつながっていく。その中で当時のユダヤ人が汚れているとして交わりを禁じていたサマリア人に対するイエスの開放的な姿勢は驚くべきものがある。
−ルカ10:30-34「イエスはお答えになった『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして・・・宿屋に連れて行って介抱した』」。
・ユダヤ人の同胞を助けなかったのは当時「清い」とされていた祭司とレビ人だった。他方、助けたのは「汚れた」とされるサマリア人だった。イエスの喩えを聞いた人たちはあまりの衝撃に声も出なかったのではないか。イエスは浄・不浄の縛りの中にある人々を解放するため、思い切った喩えを用いられる。「空の鳥の喩え」に不浄とされた烏(レビ記11:15)を用いられるのもそうだ。マタイは我慢が出来ず、烏を鳥に変えてしまう。
−ルカ12:23-24「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」。
・パウロがローマ教会に手紙を書いたのは、教会内のユダヤ人信徒と異邦人信徒に争いがあり、その調停を図るためだったと言われる。教会の中でさえ、民族の壁を乗り越えることが出来ない。その原因の一つがエズラの宗教改革だった。
−ローマ14:1-3「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです・・・あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです・・・神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」。