1.ゼカリヤの終末預言
・ゼカリヤ12-13章は一つのまとまった終末預言である。「その日に」という言葉が繰り返し用いられる(12:3,12:6,12:8,12;9,13:1,13:4)。内容的にはエルサレムに繰り返し滅亡の危機が来ても、主はエルサレムを守られるとの預言である。
-ゼカリヤ12:1-6「託宣。イスラエルに対する主の言葉・・・見よ、私はエルサレムを周囲のすべての民を酔わせる杯とする。エルサレムと同様ユダにも包囲の陣が敷かれる。その日、私はエルサレムをあらゆる民にとって重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う。地のあらゆる国々が集まりエルサレムに立ち向かう。その日には、と主は言われる。私は打って出て、馬をすべてうろたえさせ、馬に乗る者をすべて狂わせる。私はユダの上に目を開いて、諸国の馬をことごとく撃ち、目を見えなくさせる。ユダの諸族は心に言う。『エルサレムの住民は、彼らの神、万軍の主のゆえに、私の力だ』。その日、私はユダの諸族を薪で火を噴く鉢のように、麦束で燃え上がる松明のようにする。それは左右に燃え移って、周りのあらゆる民を焼き尽くす。エルサレムは、今そこにある場所、エルサレムになおとどまり続ける」。
・黙示として書かれているために、具体的な歴史背景はわからない。9章以降の文脈の中では、エジプトが攻めて来た時もシリアが攻めて来た時もエルサレムが護られたように、これからもエルサレムは不滅であるとの宣言なのだろうか。9節以降は謎めいた預言である。エルサレムの人々が「ある人を刺し貫いた」とある。諸国との戦いの中で処刑された指導者、あるいは敵に暗殺された指導者を指すのか。前134年にシリア総督によって暗殺されたシモン・マカベアではないかと想像する(第1マカベア16:11-22)人もいるが、詳細はわからない。
-ゼカリヤ12:9-10「その日、私はエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。私はダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」。
・初代教会はこの箇所に、「神の子であるにもかかわらずエルサレム住人により処刑されたイエスの死」が預言されていると受け止めた。ヨハネ福音書における十字架のイエスの脇腹が槍で貫かれた記事の背景には明らかにゼカリヤ12:10がある。
-ヨハネ19:31-37「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た・・・これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』(詩篇34:21)という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』(ゼカリヤ12:10)とも書いてある」。
・ヨハネ黙示録も同じくゼカリヤ12:10を引用して、イエスの死の意味を示している。
-ヨハネ黙示録1:7「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン」。
2.ゼカリヤ書と福音書
・13章からはエルサレムを堕落させていた偶像崇拝と偽予言者の排除が語られる。シリア王がエルサレムに持ち込んだゼウス像の撤去とそれを許した祭司たちの排除を指すのであろうか(ダニエル書9:27荒らす憎むべき者)。
−ゼカリヤ13:1-3「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。その日が来る、と万軍の主は言われる。私は数々の偶像の名をこの地から取り除く。その名が再び唱えられることはない。また預言者たちをも、汚れた霊をも、私はこの地から追い払う。それでもなお預言する者がいれば、彼はその生みの親である父からも母からも、『主の御名において偽りを告げたのだから、お前は生きていてはならない』と言われ、その預言のゆえに生みの親である父と母によって刺し貫かれる」。
・ルカはこのゼカリヤ13:3を用いて、イエスが刺し貫かれる故に悲しむマリアの将来を預言している。
-ルカ2:34-35「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』」。
・ゼカリヤ13章7節以下は、主がエルサレムの浄めのために偽の羊飼いを打たれるとの預言である。具体的にはマカベア戦争の勝利により王を兼ねた大祭司職についたハスモン家の支配の終りを意味しているのであろうか。前37年エルサレムはローマに占領され、ローマから任命されたヘロデ王が支配者となる。
-ゼカリヤ13:7-9「剣よ、起きよ、私の羊飼いに立ち向かえ、私の同僚であった男に立ち向かえと万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。私は、また手を返して小さいものを撃つ。この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一を私は火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、私は彼に答え『彼こそ私の民』と言い、彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう」。
・マルコはこのゼカリヤ13:7を、弟子たちがイエスの逮捕、処刑時において逃げ去ったことを預言したものと見ている。
-マルコ14:27-31「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆私につまずく。私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまうと書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く』。するとペトロが、『たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう』。ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』。皆の者も同じように言った」。
・福音書は旧約聖書の預言に満ちている。イエスの逮捕時に逃げ去った弟子たちは、「メシアが何故殺されたのか、イエスの死の意味は何だったのか」を思い悩み、聖書の中にその答えを見出した。福音書は歴史のイエスの生涯を記述するものではなく、弟子たちが見出した信仰のイエスを記述するものである。大貫隆は初代教会の復活信仰も聖書の読み方から来たと推察している。イエス処刑後に残された弟子たちは、メシアとして従ってきたイエスがかくも無力の中で死んだ理由を必死に聖書(旧約聖書)の中に求め、イザヤ53章8節に「義人の苦難」を見出し、ホセア6章2節、ヨナ2章1節に「死人を起こす神の力」を見出した。
-大貫隆「イエスという体験」から「それ(復活信仰)は、すぐれて解釈学的な出来事であった。(中略)仮に直接のきっかけがペテロの個人的な幻視であったとしても、旧約聖書の光に照らしての、否、旧約聖書そのものの新しい読解としての謎の解明は、すぐれて解釈学的な、内的意味発見の出来事であったと考えなければいけない」。