江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年9月26日祈祷会(ハバクク1章、神が見えなくなる時)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1. ハバクク書とはどのような書か

・小預言書は連続した時代の中で書かれている。ミカは紀元前700年頃、ユダがアッシリアに国土を蹂躙される中で、「アッシリアを神の鞭として受け入れ、悔い改めるように」イスラエルの民に求めた。ナホムはアッシリア時代末期、その衰退と滅亡を「ユダヤ解放の時として神を讃美した」(前612年前後)。それに対してハバククはアッシリアから解放されたユダがすぐにエジプトの支配を受け(前609年メギドの戦い・ユダ王ヨシア戦死、エジプト支配が始まる)、そのエジプトがバビロニアに敗北すると(前605年カルケミシュの戦い・エジプト軍敗退)、過酷なバビロニア支配が始まる。その世界史的変動の現実の中で、歴史の意味を問い続けた預言者である。
−ハバクク1:1「預言者ハバククが、幻で示された託宣」。
・ハバククが見たのは、アッシリアという「悪」から解放されたユダが、エジプトという新たな「悪」に苦しめられ、その悪が取り除かれたと思った時、今度はバビロニアという更に悪い「悪」に過酷に支配されるという現実だった。歴史(History)は神の(His)・物語(Story)である。しかし神は何故選民ユダをそんなにまで苦しめられるのか、ハバククは抗議する。
−ハバクク1:2-4「主よ、私が助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。私が、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。どうして、あなたは私に災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法が私の前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」。
・それに対して神は答えられる。「歴史は私の支配下にある。今はおまえたちの悪を罰するためにカルデア人(バビロニア人)に歴史の支配権を渡す。彼らは私が与えた力で諸国を蹂躙するだろう」と。
−ハバクク1:5-11「諸国を見渡し、目を留め、大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。見よ、私はカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る。彼らの馬は豹よりも速く、夕暮れの狼よりも素早く、その騎兵は跳びはねる。騎兵は遠くから来て、獲物に襲いかかる鷲のように飛ぶ。彼らは来て、皆、暴虐を行う。どの顔も前方に向き、砂を集めるようにとりこを集める。彼らは王たちを嘲り、支配者たちを嘲笑う。どんな砦をも嘲笑って、土を積み上げ、それを攻め取る。彼らは風のように来て、過ぎ去る。しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ」。

2. 神の行為の意味が見えなくなった時

・ハバククには理解出来ない。バビロニア人は暴虐で冷酷、神を神ともしない略奪者、ごろつきだ。ユダは罪を犯したかも知れない。しかし「あなたは私たちの悪を裁くために更に大きな悪を用いられるのか」と彼は叫ぶ。
−ハバクク1:12-13「主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために、彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため、彼らを立てられた。あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら、捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら、黙っておられるのですか。神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに」。
・神の支配のあり方は人間には理解出来ない。ハバククはバビロニア人がユダの民を「海の魚のように鉤にかけて釣り上げ、投網を打つように捕らえ尽くしている」、その現実を何故見てくださらないのかと神に詰め寄る。
−ハバクク 1:14-17「あなたは人間を海の魚のように、治める者もない、這うもののようにされました。彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ、網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ、投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得、食物に潤うからです。だからといって、彼らは絶えず容赦なく、諸国民を殺すために剣を抜いてもよいのでしょうか」。
・ここに新しいヨブ記、新しい神義論がある。(1)神は全能である、(2)神は正しい、(3)それにもかかわらず選民イスラエルに苦難が次々に襲いかかる。ハバククは神の正しさを疑いつつある。それはアウシュビッツにおいて問われた問いでもある「神が歴史を支配されているのであれば、アウシュビッツも神が起こされた出来事なのか。仮にそうでないとしたら、神は何故アウシビッツにおいて沈黙され,介入されなかったのか。神は全能でかつ正しい方であるのに」。多くのユダヤ人がアウシビッツ後に信仰を無くした。今日であれば3.11の地震・津波被害を見て多くの人が同じ問いを問う。しかしハバククは「何故に」ではなく、「いつまで」と問う(1:2参照)。彼は神による救済可能性を瞬時も疑っていない。そこに彼の信仰がある。
−ハバクク2:2-4「主は私に答えて、言われた『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」
・ハバクク2:4「義人は信仰によって生きる」、この言葉こそパウロが「信仰義認」を見出した聖句だ。預言は必ず成就する。ただ私たちはそれがいつかは知らないだけだ。
−ローマ1:17「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』(ハバクク2:4)と書いてあるとおりです」。

*ハバクク1章参考資料:レヴィナス「困難な自由、ユダヤ教についての試論」内田樹
・ユダヤ教のラビ、エマニュエル・レヴィナスはホロコーストの後に、民族の最大の災厄のときにも天上的な介入を行わないような神は信じるに値しないという理由から信仰を捨てようとした西欧のユダヤ人たちに向かって以下のように告げた。「あなたがたはこれまでどのような神をその頭上に戴いていたのか。それは善行をしたものには報奨を、悪行をなしたものには懲罰を与える、そのような単純な神だったのか。だとすれば、それは幼児の神である。だが、私たちがこうむった災厄は神のなしたものではない。人間が人間に対してなしたことである。人間が人間に対して犯した罪を神が代わって贖うことはできない。人間が人間に対して犯した罪は人間しか贖うことができない」。
・彼は続ける「神がもしその威徳にふさわしいものであるなら、神は必ずや『神抜きで、独力で、地上に公正と平安をもたらすだけの能力を備えた被造物』を創造されたはずである。神の支援がなければ何もできず、ただ暴力と不正のうちで立ち尽くすようなものを神が創造されるはずがない。人間が人間に対して犯した不正は、人間が独力で、神の支援抜きで正さなければならない。人間が自分ひとりの力で、地上に平和で公正な社会を実現したときにはじめて私たちはこう宣言することができる。世界を創造したのは神である。なぜならば神が手ずから創造すべき世界を被造物である私たちが独力で作り出したからである。神がなすべき仕事をみずからの責務として果たしうるような被造物が存在するという事実以上に神の威徳と全能を証明する事実があろうか」。
・「唯一なる神に至る道には神なき宿駅がある。神を信じるものだけが、神の不在に耐えることができる。成人の信仰とはそのようなものである」。レヴィナスはそう述べて、ヨーロッパ・ユダヤ人社会を崩落寸前の崖っぷちで食い止め、タルムードの学習と戒律遵守を喜びとする伝統的で静かな信仰の生活のうちにユダヤ人たちを押し戻した。
(Difficile Liberté, Essais sur le judaïsme, Albin Michel (1963) 『困難な自由 ユダヤ教についての試論』内田樹訳、国文社(2008)

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