江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年4月17日祈祷会(コヘレトの言葉5:1−19、誓いを遅らせるな)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

・コヘレトは神を礼拝する者は、心ない饒舌をやめ、まず神の声を真摯に聴けと語る。
-コヘレト5:1−3「焦って口を開き、心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ」。
・イエスの教えられた祈りも同じだ。「あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存である」。
-マタイ6:7−8「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思いこんでいる、彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ―』」
・神に誓ったことは必ず果たせ、遅らせるな、責任を持てと教える。人の弱さと脆さ、そして人の狡さを衝いた教えだ。コヘレトの時代も現代も人の本質に変わりはない。
-コヘレト5:4−6「願をかけておきながら誓いを果たさないなら、願をかけないほうがよい。口が身を滅ぼすことにならないように。使者に、『あれは間違いでした』などと言うな。神はその声を聞いて怒り、あなたの手の業を滅ぼされるであろう。夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。」
・コヘレトは神への誓願の実を問うている。誓いを果たせない場合の言訳は、誓願者の業を無効にする。夢や空想が多い祈り、そのような祈りは饒舌になり、誠意がなくなるから神に喜ばれない。神への畏敬を欠いた祈りはするな、そして誓願は果たせと戒めている。
-申命記23:22−24「あなたの神、主に誓願を立てる場合は遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれあなたに求め、あなたの罪とされるからである。誓願を中止した場合は罪を負わない。唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに守りなさい。」
・貧しい民が虐げられているのは、国の中に抑圧と不義、役人の腐敗が充満しているからだ。その役人の腐敗を見ても驚くなとコヘレトが言うのはなぜか、それは腐敗の常習化が国中に蔓延しているからだ。またか、という諦めが驚きを越えているからだ。上位の役人が下位の役人の不正を見逃し、さらにその上位の者が両者をかばっているから、組織的な腐敗となる。王は彼らの腐敗を許しておいてよいのか。腐敗した役人ではなく、王にとって益になるのは食糧生産に従事する農耕の民を大切にすることではないのか。
-コヘレト5:7−8「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら、身分の高い者が、身分の高い者をかばい、さらに身分の高い者が両者をかばうのだから。何にもまして国にとって益となるのは、王が耕地を大切にすること。」
・財物への執着は欲望を生み、欲望はさらに欲望を生み、果てなく満ち足りることはない。
-コヘレト5:9−11「銀を愛する者は銀に飽くことなく、冨を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているだけで何の徳もない。働く者の眠りは快い、満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。」
-コヘレト5:12−16「太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。冨の管理が悪くて持ち主が損をしている。下手に使ってその冨を失い、息子が生れても、彼の手には何もない。人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。これまた大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない。」
・同じ事をパウロも語る。
-?テモテ6:9−10「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります。金銭の欲は、すべて悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみに突き刺された者がいます。」
・人が生きる命の日々は短いが、命は神の賜物である。冨や財宝に恵まれる人もあるが、それも神の賜物である。労苦の結果の楽しみ、それもまた神の賜物である。感謝せよ。
-コヘレト5:17−19「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から冨や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。」

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