江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年4月10日祈祷会(コヘレトの言葉4:1−17、世の不条理の中で)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

−コヘレト4:1−3「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰めるものはない。見よ。虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はいない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。」
・コヘレトは権力者の暴虐と虐げられる民の涙を見た。彼らに慰めはない。生きているより死んだ方が、いや、むしろ生まれなかった方が幸いだとコヘレトは言う。もはやこれは無常観である。鴨長明は鎌倉時代初期の相次ぐ天災と飢饉から、人の世の空しさを感じ「方丈記」を書いた。思想は時代の影響を受ける「コヘレトの言葉」も時代を反映している。
−コヘレト4:4−6「人間が才智を尽して労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた、空しく風を追うようなことだ。愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。片手を満たして。憩いを得るのは、両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。」
・現代社会では競争は決して悪いことではない。しかし、コヘレトは異なる次元から人が才智を尽しての競争を否定し、他方愚かな怠け者も否定している。コヘレトは過大でも過小でもない適度の満足で平安を得よと勧める。過ぎたる労苦は空しいではないか、と言う。
−コヘレト4:7−8「わたしは改めて、太陽の下に空しいことがあるのを見た。一人の男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は冨に飽くことがない。『自分の魂に快いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか』と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。」
・孤独な者は誰の為に労苦するのか。孤独な者の労苦は空しい、なぜか、その労苦で得た財物を、用立てる親友、子供、兄弟がいないではないか。と、コヘレトは言う。しかし、2章でコヘレトはこう言っていた。「天の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだ。その者が賢者であっても、愚者であっても、知ったことではない。いずれにしても、天の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を自由にするのは彼なのだ」と、彼は財産を後継者に与えるのは空しいと言い、他方では財産を与える家族、親族がいないから労苦は空しいと言う。コヘレトにとって財で養い、財を継がせる親族がいても、いなくても労苦の空しさに変わりはないのである。
−コヘレト4:9−12「一人より二人が良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、一人がその友を助けおこす。倒れても助け起こす友のない人は不幸だ。更に二人で寝れば暖かいがひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」
・前節でコヘレトは孤独な者は苦労の甲斐がないと述べていたが、本節ではその説を拡大して、一人より二人で労苦すれば報いは大きく、外からの攻撃も二人なら防げると言っている。そして二人で寝れば暖かいと、結婚生活を匂わせる勧めもしている。三つ縒りの糸の譬えは、二人は二本の糸で、それに神の加護が加われば三本の糸となる。神を中心として二人が努力すれば、縒り合された三本の糸は強靭となり、三つ縒りの糸は切れにくい。
−コヘレト4:13−16「貧しくても利口な少年の方が、老いて愚かになり、忠告を入れなくなった王よりも良い。捕らわれの身分に生まれても王になる者があり、王家に生まれながら、卑しくなる者がある。太陽の下、命あるもの皆が代わって立ったこの少年に味方するのを、わたしは見た。民は限りなく続く。先立つ世にも、また後に来る世にも、この少年について喜び祝う者はない。これまた、空しく、風を追うようなことだ。」
・譬えの「貧しくても利口な少年」はヨセフだと言われている。ヨセフは父ヤコブの寵愛を受けたため、兄弟の妬みをかい、奴隷商人に売られ、エジプトのパロの侍従長ポテファルに買われて家財管理の才能を発揮する。しかし、侍従長の妻の誘惑を斥けたため、讒言に遭い投獄される、しかし、獄中でパロの夢解きをしてパロの重臣となり、エジプトの飢餓を救う。再度の危機から抜け出せたのは彼が利口だったからである。(創世記37−50章)老いて愚かになり忠告を入れなくなった王は多いが、本旨はそれではなく、利口な少年も愚かな王も時が過ぎて、すべて忘れ去られる、すべては空しいことだとコヘレトは言っている。
−コヘレト4:17『神殿に通う足を慎むがよい。悪いことをして自覚しないような愚か者は、供え物をするよりも、聞き従う方がよい。」
・偽りの敬虔を戒めている。「主が喜ばれるのは、焼き尽す献げ物や生贄であろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。」(サム上15:22)

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