1. ハバククの祈り
・ユダは長い間アッシリアに支配されており、人々は解放を願っていた。612年、ユダはアッシリアの圧政から解放されたが、3年後にはエジプトが新しい支配者となり、前605年以降はバビロニアの圧政に苦しむ。神は何故選民ユダをそんなにまで苦しめられるのか、預言者ハバククの抗議に対して神は、「時を待て」と語られた。
−ハバクク2:2-4「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」
・ハバククは神に祈り始める「待ちますから、一日でも早く、御国をもたらして下さい。数年のうちにも、今年にも、御業をお示し下さい」と。
-ハバクク3:1-2「預言者ハバククの祈り。シグヨノトの調べに合わせて。主よ、あなたの名声を私は聞きました。主よ、私はあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ、数年のうちにも、それを示してください。怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください」。
・「神はテマンから、パランの山から来られる」とハバククは歌う。テマンはユダの南方エドムにあり、パランはエドムとシナイの境界上にある。ハバククは幻の内に「主が、主の山シナイ山から、悪疫と疫病を伴って来られる。悪を裁くために」との預言を与えられる。新しい過ぎ越し、新しい出エジプトをハバククは期待した。
-ハバクク3:3-6「神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる。その威厳は天を覆い、威光は地に満ちる。威光の輝きは日の光のようであり、そのきらめきは御手から射し出でる。御力はその中に隠されている。疫病は御前に行き、熱病は御足に従う。主は立って、大地を測り、見渡して、国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ、永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない」。
・シナイ山に近いクシャンの国と、ミディアンの国に異変が起きていた、ハバククはその異変を神がいよいよ行動を起こされる予兆と見て期待を高める。
-ハバクク3:7-11「私は見た、クシャンの幕屋が災いに見舞われ、ミディアンの地の天幕が揺れ動くのを。主よ、あなたが馬に乗り、勝利の戦車を駆って来られるのは、川に向かって怒りを燃やされるためか。怒りを川に向け、憤りを海に向けられるためか。あなたは弓の覆いを取り払い、言葉の矢で誓いを果たされる。あなたは奔流を起こして地をえぐられる。山々はあなたを見て震え、水は怒濤のように流れ、淵は叫び、その手を高く上げる。あなたの矢の光が飛び、槍のきらめく輝きが走るとき、日と月はその高殿にとどまる」。
2.人間の希望と神の摂理
・ハバククは幻の内に神の軍隊の進軍を見る。神はユダを救うために、バビロニア征伐に立ち上がられた。ハバククの心は期待に膨らむ。
-ハバクク3:12-16「あなたは、憤りをもって大地を歩み、怒りをもって国々を踏みつけられる。あなたは御自分の民を救い、油注がれた者を救うために出て行かれた。あなたは神に逆らう者の家の屋根を砕き、基から頂に至るまでむき出しにされた・・・あなたは、あなたの馬に、海を、大水の逆巻くところを通って行かせられた。それを聞いて、私の内臓は震え、その響きに、唇はわなないた。腐敗は私の骨に及び、私の立っているところは揺れ動いた。私は静かに待つ、我々に攻めかかる民に、苦しみの日が臨むのを」。
・「私は静かに待つ、我々に攻めかかる民に、苦しみの日が臨むのを」とハバククは歌った。ハバククはバビロニア軍がユダから追放され、ユダが自由になる日を待望する。しかし、現実の歴史はハバククの預言とは異なる方向に動き、ユダはバビロニアに征服され、指導者たちはバビロンに捕囚となる(前597年)。ハバククがこの歴史を知っていたかは分からない。知っていれば嘆き悲しんだことであろう。政治的に見ればバビロン捕囚は国の滅亡であり、国民離散の悲劇だった。しかし宗教的には異なる。この捕囚を通じて民は民族の伝承を再解釈し、その結果創世記、出エジプト記、申命記等のモーセ5書が生まれる。捕囚により、ユダはパレスチナの小国から聖書の民に変えられていった。申命記7章は捕囚を通してユダの民が見出した選民の在り方だ。
-申命記7:6-8「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。
・この世の成り行きには理解できないことが多い。神がこの世を支配されているのに何故と思うような不条理に満ちている。この世はただ偶然の集積に過ぎないのではと思うこともある。しかし、理解できない現実の中に神の支配を見ていくのが信仰である。懐疑もまた信仰の一部である。創世記1章の中に民の見出した信仰が表現されていると思える(参考資料参照)
*ハバクク3章参考資料 2007年10月28日説教(創世記1:26‐31、生命の創造)から
・創世記1章は天地創造の記事であり、26節から人間の創造が記されています。人がどのようにして創造されたかを見る前に、まず天地創造の全体像を概観します。創世記1:1-2は創造前の世界がどのようであったかを記しています「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。神が天地を創造される前には、「地は混沌であって闇が全地を覆っていた」とあります。世界は闇の中にあって、混沌の中にあった。口語訳によれば、「形なく、虚しい」状態の中にありました。そこに「光あれ」という神の言葉が響きます。すると光が生まれ、闇が光によって裂かれました。
・この「形なく、虚しい」と言う言葉、ヘブル語「トーフー・ワボーフー」という言葉は聖書に三箇所出てきます。一つはこの創世記1:2、次にはイザヤ34:11、最後がエレミヤ4:23です。なぜ「形なく、虚しい」という特殊な言葉が後代のイザヤ書やエレミヤ書にあるのでしょうか。文献学的研究によれば、創世記1章は紀元前6世紀に書かれた祭司資料からなるといわれています。イスラエルはバビロン王ネブカデネザルによって前586年に征服され,首都エルサレムは廃墟となり、王族を始めとする主要な民は、捕虜として敵地バビロンに連れて行かれました。この捕囚の地での新年祭にバビロンの創造神話が演じられ、イスラエル人は屈辱の中でそれを見ました。何故神は、選ばれた民である私たちイスラエルを滅ぼされ、敵地バビロンに流されたのか。捕囚期の預言者エレミヤは歌いました「私は見た。見よ、大地は混沌(トーフー・ワボーフー)とし、空には光がなかった」(エレミヤ4:23)。「大地は混沌とし、空には光がなかった」。「自分たちは滅ぼされた、神に捨てられた」、絶望の闇がイスラエル民族を覆っていたのです。
・しかし、神が光あれといわれると光が生じ、闇が裂かれました。ここにイスラエル人の信仰告白があります。現実の世界がどのように闇に覆われ、絶望的に見えようと、神はそこに光を造り、闇を克服して下さる方だとの信仰の告白です。「主よ、あなたは私たちに再び光を見せて下さるのですか。私たちを赦して下さるのですか」。そのような祈りが創世記1章の言葉の中に込められています。創造の業は続きます・・・全ての創造の業が終えられた時、「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)。創造の業が「極めて良かった」という神の肯定の中で終えられています。この「良かった」、「良しとされた」という言葉が、創世記1章の中に繰り返し出てきます。何故、繰り返し「神は良しとされた」と言う言葉が用いられているのでしょうか。それは現在が「良しとは言えない」状況の中で、イスラエル民族が創造の「良し」と言う言葉を求めているからです。私たちは良きものとして神に創造された、しかし罪を犯したために今は「良し」とは言えない状況の中にある。神はこのような私たちを赦し、再び「良し」という中に戻して下さる、戻して下さいという信仰の告白がここにあるのです。「地は形なく空しかった。しかし、神の霊が水の面を覆っていた」、そして神はすべてを良しとして創造された。そのことの中にイスラエルの民は希望を見出しているのです。
・創世記はバビロン捕囚期に書かれました。イスラエルは国を滅ぼされ、指導者は捕囚として敵国の首都に連行されました。王や貴族、祭司、軍人、技術者等1万人に上る人が捕囚となったと列王記下24章14-17節は伝えています。人々は絶望しました。しかし、やがてその絶望の中で、人々は先祖からの伝承を調べ、それを民族の歴史として再編集して行きました。その結果、創世記を始めとするモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)と呼ばれる旧約聖書が生まれていきました。イスラエルの捕囚民が帰還を許されたのは、最初の捕囚から60年後の紀元前538年でした。捕囚を通して、イスラエルの民は、神の言葉=聖書を中心にする信仰共同体に変えられていきました。その共同体の信仰告白の言葉を、私たちは今、創世記と言う形で与えられているのです。ここには希望の告白がなされています。どのように暗い闇の中にあっても、私たちが神の名を呼び求めれば、神は聞いて下さる。その信仰が創世記1章2−3節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」との記述の中に息づいているのです。