・10章においてコヘレトは典型的知恵の教師の役割をしている。したがって、この章はコヘレトの言葉の中でも、最も箴言的である。題材も広範でコヘレトは一つ一つの問題に立ち止まって考えるよう読者を促し、人間と社会の在り方を隈なく観察し格言にしている。そして賢者と愚者の対比を繰り返し、人々と社会に警告している。しかし、現実の社会では賢者の愚行もそう珍しくはないから、賢者が愚者より優れているとは、一慨には言えない。
−コヘレト10:1−3「死んだ蠅は香料作りの香料を腐らせ、臭くする。僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく。賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。愚者は道行くときすら愚かで、だれにでも自分では愚者だと言いふらす。」
・死んだ蠅の例は「千慮の一失(智者でさえ考え過ぎると失敗することがある)」である。コヘレトにとって心は知性と理性の座であり、感情だけの座ではない。右は技術や幸福のシンボルであり、左は不幸を意味するが、政治的左右とは関係はない。知恵の舵をどちらに取るかが、人生の幸不幸の別れ道になるというのがコヘレトの教訓である。
−出エジプト15:6「主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。」
−マタイ15:31「大いなる裁きで神に受け入れられた羊は神の右側に置かれ、神に拒否された山羊は神の左側に置かれる。」
−コヘレト10:4−7「主人の気持ちがあなたに対してたかぶっても、その場を離れるな。落ち着けば、大きな過ちも見逃してもらえる。太陽の下に、災難があることを見た。君主の誤りで、愚者が甚だしく高められるかと思えば、金持ちが身を低くして座す。奴隷が馬に乗って行くかと思えば、君候が奴隷のように徒歩で行く。」
・主人が怒りを露わにしても、その場から逃げるな。真摯に主人の気持ちを受け止めれば、大きな過ちも赦してもらえる。君主に人を見る目がないから、愚か者が重臣に取り立てられたり、金持ちが卑しめられたりする。馬に乗る奴隷がいるかと思えば、奴隷のように歩いて行く君主がある。王が適材適所の人材登用に失敗したのである。
−コヘレト10:8−11「落とし穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を破る者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石に傷つき、木を割る者は木の難に遭う。なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。呪文も唱えぬ先に蛇がかみつけば、呪術師には何の利益はない。」
・日本の諺に「人を呪わば穴二つ」というのがあり、人を呪う者への警告で、結果は自業自得である。石切り場の人夫は自分の切った石で傷つき、木こりは自分の倒した木で怪我をすることがある。この二つの例えは人が何かを行う時には常に危険が伴うから注意せよという教えである。なまった斧を研いでおけとは常に知恵は磨いておけという意味である。蛇に咬みつかれる呪術師の例えは、人を呪う呪術師への警告である。
−コヘレト10:12−15「賢者の口の言葉は恵み。愚者の唇は彼自身を呑み込む。愚者はたわ言をもって口を開き、うわ言をもって口を閉ざす。愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか。誰が教えてくれよう。愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。都へ行く道さえ知らないのだから。」
・「言葉は心の使い」と言うように、心に思うことは自然に言葉に現れるから自戒しなければならない。死後のことや未来に関心をもっても、都へ行く道さえ知らない愚者に何が分かるというのだ。(人間には未来や死後の予知能力はないのだ)愚者は言葉数が多すぎて疲れてしまうのだ。
−コヘレト10:16−17「いかに不幸なことか、王が召使のようで、朝から食い散らしている国よ。いかに幸いなことか。王が高貴の生まれで、役人らがしかるべきときに食事をし、決して酔わず、力に満ちている国よ。」
・王に威厳がなく臣下に媚び、朝から宴を設けて飲食で彼らの機嫌をとるような国は秩序が乱れて不幸である。王が高貴の生まれで威厳が備わり、臣下は定まった時に食事を摂り、宴会の酒に酔いしれず、秩序と力に満ちている国は幸いである。
−コヘレト10:18−20「両手が垂れていれば家は漏り、両手が怠惰なら梁は落ちる。食事するのは笑うため。銀はすべてにこたえてくれる。親友に向かってすら王を呪うな。空の鳥がその声を伝え、翼あるものがその言葉を告げる。」
・両手が垂れているのは働かない怠け者のしるし。怠惰な者の家は屋根から雨が漏り梁が落ち家は腐り倒壊する。家族や友人と会食し、笑みがこぼれるほど楽しければ幸福だ。暮らしに必要な衣服や食糧などをはじめ、何でも買い求められる銀は重宝なものだ。どんなに親しい間柄の友の前でも、王の悪口は言わぬがよい。空を飛ぶ鳥、翼あるものがその言葉を王に伝えるから。
2013年5月22日祈祷会(コヘレトの言葉10:1−20、賢者と愚者の対比)
投稿日:2019年8月21日 更新日: