1.エリパズのヨブへの批判
・ヨブ記15章から、二巡目の友人たちとの議論が始まる。ヨブは苦難の中でうめき、その叫びは時に神を呪うような激しさになった。ヨブの友人たちはそれが許せず、ヨブに対して神を冒涜する者として激しく非難する。
-ヨブ記15:1-6「テマン人エリファズは答えた『 知恵ある者が空虚な意見を述べたり、その腹を東風で満たしたりするであろうか。無益な言葉をもって論じたり、役に立たない論議を重ねたりするであろうか。あなたは神を畏れ敬うことを捨て、嘆き訴えることをやめた。あなたの口は罪に導かれて語り、舌はこざかしい論法を選ぶ。あなたを罪に定めるのは私ではなく、あなた自身の口だ。あなたの唇があなたに不利な答えをするのだ』」。
・エリパズはヨブがまるで無神論者のように神を攻撃すると述べる。ヨブがこれまで立っていた地盤が崩され、不安と狂騒の中にあることを彼は理解しようともせず、自分の神学=知恵の教え、応報論理に立った正論を述べ続ける。
-ヨブ15:7-13「あなたは最初の人間として生まれたのか。山より先に生まれたのか。神の奥義を聞き、知恵を自分のものとしたのか。あなたの知っていることで、私たちの知らないことがあろうか。私たちには及びもつかないことをあなたが悟れるというのか・・・神の慰めなどは取るに足らない、優しい言葉は役に立たない、というのか。なぜ、あなたは取り乱すのか・・・神に向かって憤りを返し、そんな言葉を口に出すとは何事か」。
・自己の存在基盤が揺らいでいる時の狂気を私たちは理解すべきだ。歌人永田和宏が、2010年に亡くなった妻で歌人の河野裕子の、乳がん発症から10年に及ぶ闘病記を出版した。河野裕子は家族歌を多く残した。夫を想い、息子や娘に心を寄せる歌に感銘を受けた人も多い。その河野が闘病生活の中で、「時に夫をなじり、胸を擲ち、包丁までも持ち出す」。自分だけが死ななければならない、その不合理のいらだちを夫にぶつけ、夫はただ黙して怒りが過ぎ去るのを待つ。エリパズが知るべきはこの情景ではなかろうか。
-河野裕子歌集から「大泣きをしてゐるところへ帰りきてあなたは黙つて背を撫でくるる」、「わたしより不安な不安な君なれど苦しむ体はわたしの体」、「慰めも励ましも要らぬもう少し生きて一寸(ちよつと)はましな歌人になるか」
2. 応報論理の怖さ
・エリパズは言う「あなたが悔い改めない限り、あなたを待っているのは悪人の運命だ。神は逆らうものを厳しく罰したもう」。エリパズが主張するのは応報論理であり、それが伝える方法は「脅迫」だ。
-ヨブ記15:20-24「悪人の一生は不安に満ち、暴虐な者の生きる年数も限られている。その耳には恐ろしい騒音が響く。平安のさなかに略奪者が彼を襲うのだ。暗黒を逃れうるとはもう信じられない。彼の前には剣が待つのみだ。彼はパンを求めてどことも知らずにさまよい、暗黒の訪れる時が間近いことを知る。苦しみと悩みが彼を脅かし、戦いを挑む王のように攻めかかる」。
・自分は正しいと信じる者は、そうでない他人を脅迫する。狂信は人を冷酷にする。バプテスマのヨハネがそうだった。彼は民に悔い改めを求め、斧は既に木の根元に置かれていると脅して人々の回心を迫った。
-ルカ3:7-9「ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。我々の父はアブラハムだなどという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』」。
・イエスはヨハネから洗礼を受けられたが、やがてヨハネから離れて行かれた。神は人を脅して悔い改めを迫るような方ではないと信じたからだ。神は善人にも悪人にも同じように太陽や雨をお与えになる方だとイエスは信じていた。
-マタイ5:43-45「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。
・しかしイエスの後継者たちは、「イエスを信じない者は滅びる」として、人々に改宗を迫った。イエスは「律法を守らない者は滅びる」とするパリサイ人に反対されたが、イエスの弟子たちは「信仰のない者は滅びる」と言い始める。教会が福音の受容=信仰を救済の条件とし始めた時に、福音はもう良い知らせではなくなる。
-マタイ18:15-17「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。
・私たちはもう一度原点のイエスの信仰に戻る必要がある。イエスは自らを信ぜよと言われず、神を信じよと言われた。
-マルコ10:17-18「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』。イエスは言われた『なぜ、私を善いと言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』。