1.友の無情に抗議するヨブ
・ビルダデの攻撃的な演説を聞いたヨブは、耐えかねるような口調で非情なる友人たちの論難を批判する。彼は言う「私が仮に過ちを犯したとしても、友たる者はそれを批判するのではなく、慰めるべきではないか」。
−ヨブ記19:1-4「ヨブは答えた。どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。侮辱はもうこれで十分だ。わたしを虐げて恥ずかしくないのか。わたしが過ちを犯したのが事実だとしても、その過ちはわたし個人にとどまるのみだ」。
・もし友人たちがヨブの苦難を見て、それはヨブ自身が苦難に値する罪を犯したと思うならばそれは誤解だ。「私の現在の苦難は神から来る。それなのに、あなたたちは私の過ちを誇張して私を責め立てる」。
-ヨブ記19:5-6「ところが、あなたたちは、わたしの受けている辱めを誇張して、論難しようとする。それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし、わたしの周囲に砦を巡らしていることを」。
・ヨブは神がいかに彼を苦しめているかを詳述する。今の彼には何の助けもなく、叫んでも誰も来てくれいない。
-ヨブ記19:7-8「だから、不法だと叫んでも答えはなく、救いを求めても、裁いてもらえないのだ。神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた」。
・神はヨブの財産を奪い、子供たちを奪い、忌まわしい病気に追いやられた。その結果、ヨブはすべてを失った。
-ヨブ記19:9-12「わたしの名誉を奪い、頭から冠を取り去られた。四方から攻められてわたしは消え去る。木であるかのように、希望は根こそぎにされてしまった。神はわたしに向かって怒りを燃やし、わたしを敵とされる。その軍勢は結集し、襲おうとして道を開き、わたしの天幕を囲んで陣を敷いた」。
・人々はヨブから身を引き、使用人さえも彼を敬遠し、妻でさえヨブの息を嫌い、子供たちもヨブを避ける。今やヨブには誰も頼る者はいなくなった。
-ヨブ記19:13-20「神は兄弟をわたしから遠ざけ、知人を引き離した。親族もわたしを見捨て、友だちもわたしを忘れた。わたしの家に身を寄せている男や女すら、わたしをよそ者と見なし、敵視する。僕を呼んでも答えず、わたしが彼に憐れみを乞わなければならない。息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。幼子もわたしを拒み、わたしが立ち上がると背を向ける。親友のすべてに忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれてしまった。骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている」。
2.贖い主を見出したヨブ
・それは神がヨブを打ったゆえである。神に責められ、家族にも捨てられた今の私に、頼るべきはあなたがた友しかいないのに、あなた方は私の言い分を聞こうとせず、責める。どうか言葉を聞いてほしいとヨブは懇願する。
-ヨブ記19:21-22「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、わたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか」。
・しかし友人たちの態度は変わらない。そのため、ヨブは自分の言葉を墓石に記し、死後誰かがそれを読んでくれることを願う。
-ヨブ記19:23-24「どうか、わたしの言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように」。
・そのヨブが突然贖い主について語り始める。ヘブル語=ゴーエール、「買い戻す者」の意味だ。彼の死後に彼の知人や親せきが彼の名誉回復をしてくれることをヨブは望んだのであろう。
-ヨブ記19:25-27「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。
・このヨブの言葉は、もともとの意味を超えて、人々に読まれてきた。「仮に自分が無念のままに、汚辱の中、で死のうとも、神はそれを知り、いつの日か憐れんでくださるという希望」を人々はこの言葉に見た。それはイエスの十字架の叫びとも重なる言葉である。
-マルコ15:33-34「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」。
・人は死ねば「塵に帰る」ような、虚しい存在である。その虚しい存在は今神により生かされている。今生かされているという事実が、死後も生かされるであろうとの希望を持つことを許す。「東北の津波で死んだ人の命も無駄ではない。幼くして死んだ子の命も生かされる。これが福音に基づく希望である。