1、救いを求める者の歌
・現代教会の讃美歌集のような簡便なものは、当然ながら古代ユダヤには存在しない。ましてや五線譜などあるわけがない。ではどうしたか、まず音楽に長けた指揮者が、口移しに会衆に歌を教え、会衆がそれを唱和し、記憶し、礼拝の賛歌が成立する。140:1の「指揮者によって、賛歌、ダビデの詩」の記述から、そんな素朴な原始の礼拝が想像される。詩編140編は「さいなむ者」つまり、迫害者からの、救いを求める詩から始まります。
−140:1-4「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。主よ、さいなむ者からわたしを助け出し、不法の者から救い出してください。彼らは心に悪事を謀り、絶え間なく、戦いを挑んできます。舌を蛇のように鋭くし、蝮の毒を唇に含んでいます」。
・140編は冒頭が集団ではなく、「わたし」という一人称で始まるのが特徴です。この詩は「救いを求める者の歌」です。そして、「不法の者から救い出してください」と繰り返しているのも特徴です。「舌を蛇のように、蝮の毒を唇に」は隠喩です。実名をあげず隠喩にしていることから、迫害者への恐れが感じられます。
−140:5-6「主よ、主に逆らう者の手からわたしを守り、不法の者から救いだしてください、わたしの歩みを突き落とそうと謀っている者から。傲慢なものがわたしに罠を仕掛け、綱や網を張りめぐらし、わたしの行く道に落とし穴を掘っています」。
・5-6節の詩からわたしを迫害する悪は、主に逆らう者でもあるのが分かります。しかもその悪は、罠や落とし穴を仕掛けるほど謀りごとに巧みなのです。
−140:7-8「主にわたしは申します、あなたは『わたしの神』と。主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、わたしの神よ、救いの力よ、わたしが武器を執る日、先頭に立ってわたしを守ってください」。
・8節の「わたしが武器を執る日」は、そのまま読めばきわめて好戦的ですが、パウロはその武具を「神の武具」だと述べています。
−エフェソ6:10-18「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗してたつことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立っことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです」。
2、主に逆らう者を赦さないでください
−140:9-12「主よ、主に逆らう者に欲望を満たすことを許さず、たくらみを遂げさせず、誇ることを許さないでください。わたしを包囲する者は、自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。火の雨がその上に降り注ぎ、泥沼に沈められ、再び立ち上がることのないように。舌を操る者はこの地に固く立つことなく、不法の者は災いに捕えられ、追い立てられるがよい。」
・11節は、創世記のソドムとゴモラを思い起こさせます。詩人は悪に対する神の裁きを期待しています。
−創世記19:24-25「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから、硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。」
−140:13-14「わたしは知っています、主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださることを。主に従う人は御名に感謝をささげ、正しい人は、御前に座ることができるでしょう。」
・13節で詩人は、この世的に虐えたげられている貧しい人々が、神の公正な裁きによって、神の御前に座れることを望んで、詩を結んでいます。140編は繰り返し神の救いを求めていますが、詩人が繰り返し求めているのは、一時的な救いではなく、永遠の滅びからの救いなのです。
・箴言16;2-7は主に逆らう者を戒め、従う者を祝福しています。
−箴言16:2-7「人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる。あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ。主は御旨にそってすべてのことをされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。すべて高慢な心を主はいとわれる。子孫は罪なしとされることはない。慈しみとまことは罪を贖う。主を畏れれば悪を避けることができる。主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させてくださる。」