水口仁平
1.神のみ前でほめ歌を歌う
・詩編138編は神をほめる、ほめ歌から始まりです。
−詩編138:1−2「ダビデの詩、私は心を尽して感謝し、神のみ前でほめ歌を歌います。聖なる神殿に向かってひれ伏し、あなたの慈しみとまことのゆえに、御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって、あなたは仰せを大いなるものとされました。」
・138編は初めに「ダビデの詩」とダビデの名が冠されています。詩編は150の詩から成り立ち、その内約半分の73編にダビデの名が冠されています。しかし、その全部がダビデの作ではないと言われています。この詩はユダヤ人がバビロン捕囚から解放された後の、紀元前530年頃の作とされています。ダビデはその時代より、はるか昔430年前の、紀元前961年頃亡くなっていますから、ダビデの作というには無理があります。ではなぜ、ダビデの作ではないのに、ダビデの名を冠するのでしょうか。考えられる理由としては、ダビデは時代を越えて傑出した詩人であることから、後世の詩人がダビデを敬慕してダビデ風の詩を作り、ダビデを想起してその名を冠するのはきわめて当然と考えられます。
−詩編138:3「呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力をあたえ、解き放ってくださいました。」
・この詩は抽象的にバビロン捕囚から解放された感謝を歌っています。呼び求める私の声は、苦難の中で神に救いを求める捕囚の民の声です。詩の背景にある、バビロン捕囚の解放はユダヤの歴史において、出エジプトと並ぶ大きな出来事です。このバビロン捕囚からの解放を詩人は神の業とし、感謝しているのです。絶望に打ちひしがれた捕囚の民の救いを求める声に答えた神が、このとき、民を捕囚から解放し、解放と希望の神となったのです。ゼカリヤ書は捕囚からの解放を再建の時ととらえ、励ましています。
−ゼカリヤ8:9「万軍の主はこう言われる。勇気を出せ。あなたたちは、近ごろこれらの言葉を、預言者の口から、度々聞いているではないか。万軍の主の家である神殿の基礎が置かれ、再建が始まった日から。」
2.苦難のときも勇気を出しなさい
−詩編138:4−6「地上の王はみな、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。主の道について彼らは歌うでしょう、主の大いなる栄光を。主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。遠くにいましても、傲慢な者を知っておられます。」
・詩人は地上の王がみな神に従ったと肯定しています。しかし、詩人がこの詩を作った時代、このように、地上の王がみな、神のみ前にひれ伏し、感謝をささげ、神の言葉を信じ、従っていたのではありません。それどころか、地上の王たちは神の言葉を聞かず、ほしいままに振る舞い、地上は乱れに乱れていました。この詩は、いまだ誰も見ず、現れてもいない、神の国を何の疑いもなく大胆に肯定しています。そこに詩人の強い信仰、信頼が表れているのです。
−詩編138:7−8「私が苦難の道を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、私に命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。主は私のために、すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが、とこしえにありますように。御手の業をどうか離さないでください。」
・138編の結びの7−8節は苦難の時代の現実に戻っています。そして苦難の道を歩む人々のために、神の守護を願い祈り求めています。世の乱れはいつまでも去らず、すべての価値観が崩れ、なにを拠り所とするか悩むとき、人は初めて幾世変わらぬ神の存在に気づき、神に拠り所を求めます。そして神の言葉は、苦境にある人々を、励まし続けていることに気づくのです。
−ヨハネ16:33「あなたがたは世にあっては苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」−ヨハネ17:15「私がお願いするのは、彼らを世から取り去るのではなく、守ってくださることです」
・聖書は私たち自身の存在の意味を教え、信仰を導き、私たちを勇気づけます。
−?コリント1:26−31「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられた者を選ばれたのです。それは、だれ一人。神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」。