1.偶像の神に惹かれていくイスラエル
・ホセア10章はイスラエルの罪に対する裁きの書であるが、10章後半から「裁きの中の救い」が語られる。神は人を愛するゆえに裁かれるが、それは人を滅ぼすためではなく、救うためである。その預言者の信仰が表されるのが10章である。しかし、10章冒頭はやはり裁きの預言から始まる。イスラエルは主に頼ることをせず、バアル神に祭壇を捧げ、高台に石柱を建てた。彼らの祭壇は砕かれ、石柱は破壊される。偶像の神は無力だからだ。
−ホセア10:1-2「イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多く実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる」。
・ヤロブアム2世時代、イスラエルは経済的に栄えたが、貧富の格差は拡大し、人々は自分の富と健康のみを求め、その結果世界情勢の変化を見極めることが出来ず、ついにはアッシリアにより国土の三分の二を奪われる。国内は無政府状態に陥り、王は次々に殺され、新しい王が立てられても誰も尊敬しない。
−ホセア10:3-4「彼らは言う『我々には王がいなくなった・・・だが王がいたとしても、何になろうか』と。彼らは言葉を連ね、偽り誓って、契約を結ぶ。裁きが生え出てもわが畑の畝に毒草が生えるようだ」。
・彼らはベテルに祭った金の子牛を拝むが、その偶像神は何の力も持たず、やがてアッシリアが侵攻し、その戦利品として持ち去るだろう。イスラエルはもう滅ぶしかない。終末の時に人々は自暴自棄になり、泣き叫ぶであろう。
−ホセア10:5-8「サマリアの住民はベト・アベンの子牛のためにおびえ、民はそのために嘆き悲しむ・・・偶像はアッシリアへ運び去られ、大王の貢ぎ物となる・・・サマリアは滅ぼされ、王は水に浮かぶ泡のようになる。 アベンの聖なる高台・・・は破壊され、茨とあざみがその祭壇の周りに生い茂る。そのとき、彼らは山に向かい『我々を覆い隠せ』、丘に向かっては『我々の上に崩れ落ちよ』と叫ぶ」。
・ルカはこのホセア10:8をイエスが十字架を担いでゴルゴダに向かう時に言われたと記す。神の子を十字架に殺す、その行為はイスラエルの断末魔の声と重なるというのだろうか。
−ルカ23:26-31「人々は・・・シモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた・・・イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた『エルサレムの娘たち、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、子を産めない女・・・は幸いだと言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める」。
2.滅びの中の救い
・11節以降も裁きの言葉が続くが、その中に救いの希望が見え始める。もしイスラエルが悔い改めれば、「新しい土地を耕し、救いの業をもたらす種を蒔けば、イスラエルは回復する」と預言される。
−ホセア10:11-12「エフライムは飼い馴らされた雌の子牛、私は彼女に脱穀させるのを好んだ・・・エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く。恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように」。
・主はイスラエルを愛しておられる。彼らが主の戒めから離れ、バアルという神に走っても、それでもイスラエルの救済を望んでおられる。この神を信じるゆえに、私たちは絶望の底にあっても主を慕い求める。
−ホセア11:8-9「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか・・・私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。私は、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない・・・お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」。
・しかしイスラエルはこの神の呼びかけに応答しなかった。その結果、アッシリアのシャルマン王はベテルに攻め入り、サマリアを包囲して終にはこれを滅ぼすであろうとホセアは預言する。イスラエルは前722年に滅ぶ。
−ホセア10:13-15「ところがお前たちは悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ。どよめきがお前の民に向かって起こり、砦はすべて破壊される・・・ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる」。
・しかしイスラエルは蘇える。イスラエルの失われた国土はやがて取り戻され、失われたイスラエル領のガリラヤから神の御子イエスが生まれられる。
−マタイ4:12-17「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』。そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた」。
*ホセア10章参考資料:日本人の信仰とバアル宗教(市川喜一)
1.日本人の豊穣信仰
・日本人は農耕民族ですから、その信仰は作物の豊穣を語り祈る神話と儀礼が中心となります。縄文の昔から、作物を生み出す大地の生産力を「地母神」として祭っていたようです。弥生時代には、春の収穫祈願のトシゴヒ祭や秋の収穫感謝のニヒナメ祭が行われていました。この地母神信仰や死体化生神話等が、日本にも自然発生的にこのような形の宗教が行われていたのです。日本人の宗教にとって重要なもう一つの形は、祖先崇拝、あるいは祖霊崇拝です。これは、死者の霊が地上の子孫の生活に守護や災禍をもたらすという信仰から祖先の霊を祭ったものですが、これが血縁共同体である氏族の共通の先祖の霊を氏神として祭るようになります。先祖霊は年毎にイエに帰ってきて子孫から祭を受けるわけですが、日本人は稲作民族ですから、祖霊は稲霊(稲作を守る田の神)と融合して祭られるようになります。春と秋の稲作の祭が、イエに帰って来る祖霊の祭と一緒になります。正月とお盆は、初春と初秋に行われる田の神の祭と一体となった先祖祭に他ならないのです。お盆は仏教的な衣をまとうことになりますが、実態は日本古来の先祖祭です。正月とお盆は、日本人がもはやそれと意識しないほど体にとけ込んでいる宗教の祭なのです。まさに「日本教」という宗教の大祭なのです。
・このような形態の宗教が日本人の信仰です。それは日本人自身にも宗教とか信仰とは意識されないほど、魂の基底を形成しております。この信仰は、仏教が国教になり貴族階級の宗教になっても、儒教やキリスト教が入ってきても、科学の時代になっても、現代にいたるまで変わることなく居座り続けています。ある宗教学者はこのような信仰形態を「基層宗教」と呼んでいます。日本人の基層宗教としての神道は祭りの宗教です。このような自然発生的な宗教が、ヤマト朝廷の成立にともない、その政権の正統性を根拠づけるために統合されるようになります。地方の各氏族の神話は統合されて「古事記」と「日本書紀」になります。その頃、外から入ってきた仏教に対して、このような日本固有の自然宗教が「神道」と呼ばれるようになります。その後、律令体制の進展にともない、神祇制度が整えられ、各地のヤシロは位をつけられて階層的秩序に統合され、国家祭儀に組み入れられていきます。さらに、この民族宗教は仏教や儒教と習合して様々な形の教派神道を生み出します。明治期には近代国家統合のイデオロギーとして国家神道になり、国民を破滅の危機に陥れます。
2.バアル宗教
・イスラエルの民は神によってエジプトから救い出され、荒野でヤハウェと契約を結び、約束の地カナンに入って定住するにいたりました。ところが、このカナンの地には古くから土着の宗教があり、イスラエルの民はヤハウェとの契約を保つためには、土地の宗教からの誘惑と激しく戦わなければならなかったのです。土地の神は「バアル」と呼ばれていました。「主」とか「所有者」という意味の語です。バアルは天候を司り、植物を育てる神として祭られ、アシラという女神を妻として伴い、豊穣神として一緒に拝まれることが多かったようです。
・また、カナンではアシタロテという神も拝まれていました。旧約聖書では「天の女王」とか「天后」とも呼ばれています。この女神を祭って豊穣を祈る祭儀は性的なもので、その祭儀が行われる場所は「聖なる高台」と呼ばれ、神殿娼婦が置かれていました。生殖と豊穣が結びついて、豊穣を祈る祭儀に性的な象徴が用いられました。その他、モアブ人の神ケモシ、アンモン人の神ミルコムなどの神々のために聖なる高台が築かれ、祭儀が行われました。このような土地の神々は一括して「バアル」の名で呼ばれることもあったようです。このバアルの聖なる高台で、イスラエルの人々は豊穣繁栄を求めて、神話が語る神々の像を造り、その前で香をたき、酒を注ぎ、犠牲の動物を焼き、性的放逸にふけり、ときには息子や娘を火で焼いて捧げることさえ行ったのです。
・このような神々の祭儀は、イスラエルの中ですでに士師たちの時代から行われていました。サムエルはこれをきびしく非難し、ヤハウェだけに仕えるように求めています。このような祭儀信仰はヤハウェ信仰ときびしく対立します。バビロン捕囚にいたるまで、預言者たちは土地の神々の祭儀を激しく攻撃し、イスラエルにヤハウェ信仰に立ち帰るように叫びました。その代表的な預言者がエリヤです。彼は、アハブ王の妻イゼベルが出身地のシドンからもってきたアシラなどのバアル祭儀と戦い、その祭司たちとカルメル山で対決します。ホセヤは淫行の妻の象徴をもって、そのような祭儀はヤハウェに対する淫行であって、それがイスラエルの罪であることを示しました。イザヤもアシラの祭儀を裁いています。このような預言者たちの批判にもかかわらず、バアル祭儀はなくなりませんでした。
・バアル祭儀に対する預言者たちの戦いを通して、ヤハウェ信仰の質が明らかにされてきます。バアル祭儀は人間の生活の中から自然に発生する自然宗教です。土地の生産力を神とし、神話が語るその神々の原初の働きを現在に確保するために行う祭儀です。それに対して、ヤハウェ信仰はまったく別の質の信仰です。ヤハウェは荒野で民に現れます。ヤハウェは民に語りかけ、その言葉で民と契約を結びます。ヤハウェの言葉が、それを聴いて受け入れる民を神の民とします。その言葉が神と人、人と人との関係を規定し、創り出していきます。そして、その言葉が民の地上の歩み(歴史)を創り出していくのです。バアル信仰は人間の側から発する神話と祭儀に基づいています。それに対して、ヤハウェ信仰は人間を超えた向こう側から語りかける言葉に基づいています。捕囚までのイスラエルの歴史は、この二つの信仰が激しく戦う舞台となったのです。