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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年1月19日祈祷会(ダニエル書10章、終末の日の幻)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.終末の日の幻

・ダニエル10-12章は終末に関する幻である。著者の最大関心は今イスラエルを苦しめているシリヤ王アンティオコスの迫害がいつ終わるのか、ということであり、それを著者は様々の表現で示す。そのダニエル書の最終章が10-12章であり、10章は序章、11章が幻とその解き明かし、12章が終章になっている。物語は断食をして神の啓示を待ち続けるダニエルに啓示が与えられたと始まる。
-ダニエル書10:1-3「ペルシアの王キュロスの治世第三年のことである。ベルテシャツァルと呼ばれるダニエルに一つの言葉が啓示された。この言葉は真実であり、理解するのは非常に困難であったが、幻のうちに、ダニエルに説明が与えられた。そのころ私ダニエルは、三週間にわたる嘆きの祈りをしていた。その三週間は、一切の美食を遠ざけ、肉も酒も口にせず、体には香油も塗らなかった」。
・ダニエルの見た幻は派遣された天使ガブリエルの幻だった。ダニエルは聖なる者との出会いに意識を失ってしまう。
-ダニエル10:4-9「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった・・・私は一人残ってその壮大な幻を眺めていたが、力が抜けていき、姿は変わり果てて打ちのめされ、気力を失ってしまった。その人の話す声が聞こえてきたが、私は聞きながら意識を失い、地に倒れた」。
・断食による恍惚体験が幻を見せたのだろうか。この幻はエゼキエルの見た幻(エゼキエル1章)と似ており、ヨハネの見た幻体験とも共通している。
-ヨハネ黙示録1:9-17「私は・・・パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、私は"霊"に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた・・・私は、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと・・・人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった・・・私は、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった」。
・天使ガブリエルはダニエルに語りかける「ペルシア王国の守護天使が抵抗していたため来るのが遅れた」と。
-ダニエル書10:13-14「ペルシア王国の天使長が二十一日間私に抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、私はペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ」。
・ここにダニエル時代に広く信じられた天使伝承がある。当時の人々は、神は国々に対してそれぞれの守護天使を定め、地上の支配者たちの争いは天上の守護天使たちの争いの反映に過ぎないと考えた。すべての出来事は天上で決定しており、地上はその反映に過ぎない。私たち人間の運命は既に決定しており、私たちがそれを知らないだけだと。
-ダニエル書10:20-21「なぜお前のところに来たか、分かったであろう。今、わたしはペルシアの天使長と闘うために帰る。私が去るとすぐギリシアの天使長が現れるであろう。しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対して私を助ける者はないのだ」。

2.ダニエル書10章をどう読むか

・ダニエル書10章は私たちには理解が難しい。天使や幻体験をどう理解するのか。ただ11章と併せ読めば理解できる。以下11章の概要を見るが、著者の意図を辿っていけばダニエル書が荒唐無稽な物語ではないことが理解できる。
-ペルシアの第四の王(クセルクセス)が隆盛を極めて、ギリシア王国に挑戦する(11・2)。ギリシアの勇壮な王(アレキサンダー)が現れて支配するが、死んだ後は武将たちが此れを継承する(11・4)。北の王(シリヤ・セレウコス朝)と南の王(エジプト・プトレマイオス朝)とは、抗争を繰り返す。麗しい土地エルサレムを支配した北の王が倒れた後、甘言を用いて王権を得た王(アンティオコス4世・エピファネス)が、契約の君(大祭司オナニア3世)を殺し、悪計で勢力を増し強大になってゆく(11・21〜24)。北の王(エピファネス)は南エジプトに攻め入るが、キティムの船隊の攻撃(ローマ帝国の干渉)で失敗する(11・25〜30)。彼は出兵してエルサレム神殿を汚し、ゼウス像を建てる(11・31)。王は、ユダの律法違反者を棄教させる。真の信仰者「目覚めた人々、11・33、35、12・10b」は、確固とした行動をとるが、迫害されて何人かは倒される。非暴力抵抗で信仰を守ろうとする人々は迫害に会う(11・32〜33)。目覚めた人々の指導者は殉教するが、終末はまだ来ない(11・34〜35)。純白に清められるまで時間がかかる。王エピファネスはいよいよ驕り高ぶり、偶像を崇め、侵略して領土を拡張する(11・36〜39)。南のエジプト王が、北のシリヤ王に挑戦するが、北の王は大軍をもって南の王のエジプトを征服し、略奪する。「麗しの地」エルサレムも侵略される(11・40〜45)。東と北から、反撃の知らせが来たので、アンティオコス・エピファネスは迎え撃つために、エルサレムに陣を張り、王の宿営とするが、遂に最期の時が来る(11・45)。いよいよ最後の時、終末が来て、大天使ミカエルが現れ、最後の審判(12章)が始まる。

ダニエル書10章参考資料:アイザック・ニュートンのダニエル書研究

・アイザック・ニュートンは著名なイギリスの自然哲学者・数学者だが、彼は年代学・錬金術・聖書解釈(特に黙示録)についても熱心に研究していた。たとえば、1942年にニュートンの錬金術研究書を購入し、検討した経済学者のケインズは、「ニュートンは理性の時代(age of reason)の最初の人ではなく、最後の魔術師だ」と発言した。ニュートンが生きていた時代においては、インテリ層が持っていた世界観は、後世のそれと異なっていたことは記しておかねばなるまい。当時、西洋では人々は聖書の世界観で世界を見ていたのである。
・ニュートンは、自身を聖書の記述を解釈する使命のため神に選ばれた人々の一人だと考えていた。ニュートンは聖書の予言的解釈を強く信じており、いわゆるバイブル・コード(聖書に隠されているされる暗号)の調査と解釈に生涯の多くを捧げた。ニュートンはヨハネの黙示録の解釈に重点を置き、黙示録に多くの書き込みを行い、自分なりの解釈を詳説した草稿を残している。
・2003年2月から3月にかけて、多くのメディアがニュートンによって書かれた無名・未発表の文書に注目した。この文書で、ニュートンは少なくとも2060年までは世界は滅びないと予測していた。このニュースは広く関心を集め、イギリスのデイリー・テレグラフ紙、カナダのナショナル・ポスト紙、イスラエルのマーリヴ紙など大新聞の一面を飾り、ネイチャー誌などの科学雑誌でも特集が組まれた。その翌週、テレビやインターネットではさらに大きくこれを取り上げ、しまいには2060年の予言や、ニュートンの知られざる思想や研究を取り上げるドキュメンタリー映像も制作された。科学的合理性の権化といった一般的なニュートン像と、不合理な「世界の終わり」の予言の対比はそれ自体が避けがたくセンセーショナルな話題となった。
・ニュートンの予測を理解するためには明らかな反三位一体論、教皇への宗教的視点など彼の神学上の信念を踏まえなければならない。このどちらもニュートンの計算にとって必須の要素であり、2060年という期間に密接に関係しているのである。最初の資料はヤウダ・コレクションの一部で、手紙の紙片である。この裏にニュートンはダニエル書に関して以下のように走り書きしている。
「予言における「2300日」(ダニエル8:14)は雄ヤギから角が生えた日以前から数えはじめるものではない。これらの日はローマによる紀元70年のエルサレム征服・神殿破壊以前から数えはじめるものではない。一時(いっとき)と幾時と半時は教皇が支配権を確立する800年以前から数えるものではない。これはグレゴリウス7世の治世の後、1084年以降から数えるものではない。1290日(ダニエル書12:11)は842年以前から数えはじめるものではない。これはグレゴリウス7世の治世の後、1084年以降から数えるものではない。1290日と1335(ダニエル書12:12)日の違いは7週間に収まる。したがって、2300年間の終わりは2132年以前でもなければ、2370年以降でもない。一時と幾時と半時の終わりは2060年以前でもなければ2344年以降でもない。1290日の始まりは2090年以前でもなければ1374年(おそらく2374年の間違い)以降でもない」。
・「一時と幾時と半時」(ダニエル書12:7)は、太古の暦法に合わせて一年を12か月・1か月を30日とすれば、3年半、すなわち42か月もしくは1260日間である。そして短命の獣の年月を長命の王国の年月に置き換える。1260日間を三人の王の征服からはじまると計算すると、2060年に終わることになる。これ以降に世界の終わりが訪れるのかもしれないが、これより早く終わる理由は私には見あたらない。この指摘は、終末がいつ来るか断言するものではない。空想家による性急な当て推量と、それが外れることによって神聖な予言に疑惑が湧くことを防ぐためのものである。キリストは夜盗のようにやって来るのであり、我々は神の胸中にある来訪の時期を知るべくもないのである。
・明らかに、ニュートンの数学的な終末予測は聖書の解釈のみに拠るものではなく、彼個人の神学的視点を通した特有の年代解釈にも基づいている。ニュートンは2060年以降の出来事について、地球とそこに住む生物の消滅といった風に明言はしておらず、どちらかといえば神聖なる霊感を受けた平和な時代への移行とともに、世界が新しいものに置き換えられると信じていた。キリスト教やイスラム神学では、このような概念はイエスの再臨や神の王国の樹立として見受けられる。
・別の草稿では、ニュートンは黙示録21章と22章について以下のような解釈を書いている。「新しい天と新しい地。新しいエルサレムが夫のために着飾られた花嫁のごとく天から降臨する。結婚の晩餐会。神は人々を思い煩って涙を涸らし、泉を贈り、小さき者どもを作り、完了する。新しいエルサレムの栄光と喜びは、金と宝石によって示され、神と子羊(神の子羊=キリストの称号のひとつ)の栄光に照らされ、生命の樹が茂る楽園の川に潤される。この街の中で、世界の王はみずからと民と聖人の栄光をもたらし、永久に統治する」。

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