1.共同体の一致が破壊されている中で
・詩篇133編は都上りの歌の一つである。「都上りの歌」はバビロン捕囚により離散の憂き目にあった民が、再びエルサレム神殿に参詣出来る喜びを歌った連歌である。帰国が許された人々は神殿の再建に取り掛かるが、現実には利害が交錯し、一つ思いになれなかった。人々は「主がいてくださらなければ何も出来ない」と歌った。
−詩篇127:1「都に上る歌・・・主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」。
・エルサレムの再建は進まない。絶望の中で詩人は歌う。それが詩篇130編だ。
−詩篇130:1-2「都に上る歌。深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈る私の声に耳を傾けてください」。
・詩人は主がダビデの家を再興すると約束して下さった、その約束に信頼し、歌う。それが132編だった。
−詩篇132:10「ダビデはあなたの僕、あなたが油注がれたこの人を、決してお見捨てになりませんように」。
・このような流れの中で、133編は歌われている。そこにあるのは単なる兄弟の和合の美しさではなく、同胞が一致できない中で、その一致を慕い求めた歌と解せられる。
−詩篇133:1「都に上る歌・・・見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。
・133編の主題は神の家の回復だ。良い油がアロン(祭司)のひげに滴るまでに豊かに注がれる。ヘルモンの露が乾いた大地に注がれて豊かな作物の実りをもたらす。そこに詩人は神の家に集う人々への主の祝福を見る。
−詩篇133:2-3「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された、祝福と、とこしえの命を」。
2.主にある交わりの回復のために
・かつてダビデは歌った「命のある限り主の家に宿り、その宮で朝を迎えよう」(詩篇27:4)。生活の親密さは共に住み、共に食べることから生まれる。初代教会は持ち物を共有し、一緒に住み、そのことによって多くの人が教会の交わりの中に招き入れられた。
−使徒4:32-35「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」。
・しかしその共同体はやがて崩壊していく。生産をせず消費するだけの共同体は維持できないからだ。私たちは理想的な共同体がやがて崩れ去っていったという現実をも見つめる必要がある。
−使徒6:1「弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」。
・理想と現実の双方を踏まえて、私たちは神の家共同体=教会を形成していく。そこにある理想は、教会は「主が共にいて下さる」場であり、人々を隔てる壁はイエスの十字架を通して取り除かれているという信仰である。
−マタイ18:18-20「あなたがたが地上でつなぐことは天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは天上でも解かれる・・・どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」。
・しかし現実の教会には争いがある。主の晩餐をだれに配餐するか、按手を受けていない牧師は礼典を執行できるのか、些細な問題が教会を分裂させている。それは主が喜ばれることではない。教会は正しさを主張する場ではなく、罪の赦しを感謝する場なのだということを再度覚えたい。
−マタイ7:1-5「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか・・・偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。
・教会が罪の赦しを感謝する場であることが理解された時、そこに和解が生じる。
−マタイ5:23-24「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。