1.失望と落胆の中で主に出会う
・都詣での歌はいずれも短いが、巡礼者たちがそれぞれの思いを込めて歌ったものであり、意味は深い。詩篇131編も3節しかない短い詩であるが、彼の苦闘の人生の跡をたどることが可能である。本詩は捕囚帰還後の人々が思うようにいかない現実の中で、主に出会い、慰められた体験を歌ったものであろう。
-詩篇131:1「主よ、私の心は驕っていません。私の目は高くを見ていません。大き過ぎることを、私の及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」。
・捕囚から帰還した人々は、エルサレムに帰れば全ては良くなると期待していたが、現実は厳しく、幻想は打ち砕かれた。「驕る心と高くを見る目」、誰もが成功を夢見るが、誰もが成功するわけではない。帰国後の困難を、詩人は当初は神の約束違反と感じていたが、次第にそれは自分の罪の故であることを悟り、無力にされていった。
-イザヤ59:1-2「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。
・無にさせられることを通して、詩人は自分が乳離れした嬰児のように、神に信頼する事ができるようになったと歌う。嬰児は乳離れさせられる時、乳を求めて泣き叫ぶ。しかしいつまでも母乳で育てるのは嬰児の発育に有害であり、ユダヤの母親は乳首に苦いものを塗って離乳を促したという。人は世に躓き、人に躓いて、自己の無力を知る。徹底して無力を知ればもはや焦燥もなく、苦慮もない。困難は私たちの乳離れのために与えられる。
-詩篇131:1-2(口語訳)「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、私はわが力の及ばない大いなる事とくすしき業とに関係いたしません。かえって、乳離れした嬰児が、その母のふところに安らかにあるように、私はわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れした嬰児のように、安らかです」。
2.心が無にされた者こそ神の国に入る
・詩人は自己の挫折経験を通して人々に語りかける「イスラエルの人々よ、あなた方は今苦難の中にある。そのことこそ主の恵みなのだ。思うように行かない時こそ乳離れの時であることを思い起こせ」。
-詩篇131:3「イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」。
・私たちの中には高ぶる心、驕る思いがある。ルカ18章のパリサイ人は自分を誇った。私たちも自分を正しいとする時、自分を誇り、驕り高ぶる。それを知るために「思うようにいかない現実」が与えられる。
-ルカ18:11-12「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。
・エレミヤは40年間預言者として立たされたが、常に苦難の中に置かれ、最後は強制的に連れて行かれたエジプトで客死する。彼の生涯の意味は何だったのか、どこに預言者としての報いがあったのかとさえ思える。しかしエレミヤはその弟子バルクに、「偉大なことをしようと思うな。与えられた勤めを果たせ」と遺言して死ぬ。
-エレミヤ45:1-5「バルクよ、イスラエルの神、主は、あなたについてこう言われる。あなたはかつてこう言った“ああ、災いだ。主は、私の苦しみに悲しみを加えられた。私は疲れ果てて呻き、安らぎを得ない”・・・主はこう言われる“私は建てたものを破壊し、植えたものを抜く。全世界をこのようにする。あなたは自分に何か大きなことを期待しているのか。そのような期待を抱いてはならない。なぜなら、私は生けるものすべてに災いをくだそうとしているからだ”と主は言われる。ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える』」。
・心の無一物なる者は他に頼るものがないから神に頼り、神に頼る者は神の国に入る。自分に依り頼み、力を振るい、功名を求める英雄偉人は神の国に入れない。彼らは既にこの世で報いを受けている。神の国に入る者は柔和な者、悲しむ者、心貧しき者である。イエスが馬ではなくろばに乗って、エルサレムに入城されたことの意味を考えよ。
-マタイ21:2-5「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい・・・それは預言者を通して言われていたことが実現するためであった『シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。
詩篇131編参考資料:「病者の祈り」(作者不詳)
−病者の祈り「私は神に求めた、成功をつかむために強さを。私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、よりよきことをするために。私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神が必要であることを知るために。私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。私はだれよりも最も豊かに祝福されている」。
*試訳者・日本キリスト教団柏教会 春原禎光牧師の解説
この詩は、ニューヨークにある物理療法リハビリテーション研究所(Institute of Rehabilitation Medicine, 400 East 34th Street NYC, NY)の受付の壁に掲げられている。この詩は「病者の祈り」のタイトルでよく知られている。主イエス・キリストの信仰に支えられつつ癌で亡くなったフジテレビのアナウンサー山川千秋の闘病記、 山川千秋・穆子(きよこ)、『死は「終り」ではない−−山川千秋・ガンとの闘い一八〇日』、文藝春秋、1989年)
の70-72頁で紹介されている。この本は、文庫になっている(文春文庫、1991年)。また、『こころのチキンスープ』220ページでは、「苦しみを超えて」という題で紹介されている。ジャック・キャンフィールド、マーク・ビクター・ハンセン(木村真理、土屋繁樹 訳)、『こころのチキンスープ』、ダイヤモンド社、1995年)。