箴言1章、8章で知恵はすでに擬人化され、街中を一人歩きしていました。9章では、さらに知恵は具象化され、知恵の家が建てられます。
1.「知恵の勧め(四)」
−箴言9:1-6「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え、はしためを町の高い所に遣わして、呼びかけさした。『浅はかな者は誰でも立ち寄るがよい。』意志の弱い者はこう言った。『わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい、浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために。』」
・知恵は塔のような高い所から町中に呼びかけます。弟子を集める募集活動です。弟子の資格は「浅はかな者」や「意志の弱い者」です。知恵の家は知恵を教える学校です。知恵の家の柱が七本とは、どう考えても狭すぎますから、七本の柱は、七の数で知恵をシンボラィズしているのでしょう。何をシンボライズしているかは、定かではではありませんから、解釈は読む人の自由に任されています。天地創造の七日間など、どうでしょうか。
2.「格言集(二)」
−箴言9:7-9「不遜な者を諭しても侮られるだけだ。神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。神に従う人に知恵を与えれば彼は説得力を増す。」
・7-9節では、一転して、知恵が失望を露わにします。教師がどれだけの努力を重ねようとも、学習の実を結ばない者がいることは確かです。知恵の教師はその苦い経験を隠そうとはしません。教師に敬意を払わない生徒に、教える苦労が身に沁みた者だからこそ、その空しさを「神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。」と反省しているのです。むしろ叱るなら知恵ある者を叱れと、世の教師たちに自分の経験を披露しています。
−箴言9:10-12「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の始め。わたしによって、あなたの命の日々も、その年月も増す。あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は自分で負うのだ。」
・たしかに、「主を畏れることは知恵の始め」です。箴言1:7には「主を畏れることは知恵の初め、無知な者は知恵をも諭しをも侮る」とあります。かつて中世のヨ−ロパでは、神学が学問のすべての基礎でしたから、まさに主を畏れることは知恵の初めでした。今はどうでしょうか。箴言14:27は「主を畏れることは命の源」と言っています。表現は様々でも主を畏れることが、知恵を学ぶことの初めであることにかわりは有りません。
3.「愚かな女」
−箴言9:13-18「愚かさという女がいる。騒々しい女だ。浅はかさともいう女がいる。何一つ知らない。自分の家の門口に座りこんだり、町の高い所に席を構えたりして、道行く人に呼びかける、自分の道にまっすぐ急ぐ人々に。『浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。』意志の弱い者のはこう言う。『盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまいものだ。』そこに死霊がいることを知るものはない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる。」
・13-18節と、1-6節の9章の初めと終わり節は対象的です。知恵の家の食事と、愚かな女の家の食事は明らかに相違があります。「愚かさという女」は「知恵」と同じように、家の入口や町の高い所から、道を行く人に、浅はかな者は誰でも立ち寄るがよい。意志の弱い者はこう言うと呼びかけています。ここまでは、どちらも同じですが、「愚かさという女」に招かれた者は、盗んだうま酒を飲み、隠れてうまいパンを食べる者となり、陰府に落ちるのです。知恵の食卓で食べるか、愚かな女の食卓につくかの選択は命の食べ物をとるか、死の食べ物をとるかの選択となります。9章は、命の食べ物と死の食べ物を、いかに見分けるか、どちらを選択するかを教えるのが目標です。神を畏れる人は命の道を進み、命の食べ物に与ることができるのです。
・ヤコブの手紙は「信仰と知恵」について、こう述べています。
−ヤコブ1:2-8「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」