1.捕囚の民が学んだもの
・詩編95編は捕囚から帰還した民が神殿を再建し、そこで主を賛美した歌だと言われている。異国の地で捕囚の民はその地にも臨在される主に出会った。その出会いがイスラエルを王国と神殿に依存する民から、信仰の民へと変えて行く。
−詩編95:1-3「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ、楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王」。
・イスラエルの民は捕囚地で、異教の神は偶像に過ぎないことを見出した。偶像は人が持ち運ばないと動けない。
−イザヤ46:1-2「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く」。
・私たちをバビロンから導かれた主はそのような方ではない。天も地も人も創造され、保持される方だと詩人は歌う。
−詩編95:4-6「深い地の底も御手の内にあり、山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。私たちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう」。
・「創世記・天地創造物語」は、当時のメソポタミア地方に広く流布していた世界創造神話を基に、紀元前6世紀の捕囚イスラエル民が書いたものと言われる。家や土地を奪われ、家族を失い、国を失い、自己の存在さえも否定される捕囚生活の中で、人々はうなだれ、失意し、絶望した。その中で預言者たちが立てられ、「生の根源は神にある」と民を励ました。「神が私を造られた、私の根源は神にある」、その信仰が70年間の捕囚期間を通してイスラエルを支えた。
−詩編95:7a「主は私たちの神、私たちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊」。
2.もう罪を犯してはならない
・天地を創造された方こそ、私たちを導かれる羊飼いであると詩人は信仰を語る。しかし自分たちが何故捕囚となったのか、それは私たちが罪を犯したためである。「私たちは赦された、だからもう罪を犯してはならない」。
−詩編95:7b-9「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖は私を試みた。私の業を見ながら、なお私を試した』」。
・メリバとマサの体験こそイスラエルの罪の原点である。エジプトから救い出された民は荒野に導かれたが、そこには水はなく、民はつぶやく「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」(出エジプト17:3)。モーセは主に願い、主は民に水を与えられた。これで、一時的には問題は解決したが、苦難が来れば同じ問題が再燃する。問題は外部状況ではなく、私たちの心のあり方(信仰)なのである。
―出エジプト記17:6-7「『見よ、私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる』。モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」。
・「神は本当におられるのか」、人は常にしるしを求める。神がおられるのなら水を与えよ。神がおられるのなら病を癒せ。神を試すとは神を自分の奴隷にすることだ。これは信仰ではない。ヘブル書の著者は詩編95編を引用しながら言う。
―ヘブル3:16-19「いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか・・・いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか」。
・従うとは「神を試さないこと」だ。私たちはその模範をイエスの荒野の試みに見る。
−マタイ4:5-7「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った『神の子なら、飛び降りたらどうだ。神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支えると書いてある』。イエスは『あなたの神である主を試してはならないとも書いてある』と言われた」。
・エジプトを出て約束の地に入ることのできた者はほとんどいなかった。エジプトを脱出した世代が死に絶え、新しい世代が起こり、彼らが約束の地に入った事を覚えよ。今日決断しなければ遅いのだ。
−詩編95:10-11「四十年の間、私はその世代をいとい、心の迷う民と呼んだ。彼らは私の道を知ろうとしなかった。私は怒り、彼らを私の憩いの地に入れないと誓った」。
・ヘブル書の著者は言う「もしあなた方が安息を求めるのであれば、今日主の声に聞き従え。明日決断しようとする人は決断しないだろう。今日でなければいけないのだ」。
―ヘブル3:12-14「あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。私たちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」。
*詩編95編参考資料:新約聖書に見る詩編95編
1)コリント第一10章
・パウロは偶像礼拝から抜け出すことの出来ないコリント教会の人々に旧約の事例を思い起こすように勧める。エジプトから解放された人びとがみな約束の地に入ったのではなく、大部分は荒野で死んだのだ。
−?コリント10:1-5「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」。
・コリントの人々が異教世界に訣別して、キリストに預かるバプテスマを受けたように、イスラエルの人々も異教のエジプトから救われ、導かれ、約束の地に向かった。しかし、大部分の人は約束の地に入れなかった。
−詩篇106:24-27「彼らは愛すべき地を拒み、御言葉を信じなかった。それぞれの天幕でつぶやき、主の御声に聞き従わなかった。主は彼らに対して御手を上げ、荒れ野で彼らを倒された。子孫は諸国の民に倒され、国々の間に散らされることになった。ハムの地で驚くべき御業を、葦の海で恐るべき御業を、成し遂げられた方を忘れた」。
・同じ出来事があなた方にも起こる。バプテスマを受け、主の晩餐に預かっても、信仰から離れた者は滅ぶのだ。
−?コリント10:7-12「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。・・・彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。・・・彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。・・・不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面している私たちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」。
2)ヘブル書4章
・ヘブル書の著者は詩編95編を引用して、旧約の民の不従順を指摘する。イスラエルは、神のエジプトからの救済と安息の地を与えるとの約束があったにもかかわらず、神に不従順であったゆえに、ほとんどの者は救いからもれた。新しいイスラエルであるあなた方は旧約の民の過ちを繰り返してはならない。
―ヘブル4:1-3「神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、私たちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じた私たちは、この安息にあずかることができるのです」。
・神は約束を果たされる方である。罪を犯した父祖たちは約束の地に入ることは出来なかったが、その子や孫はヨシュアに導かれてカナンの地に入った。その民に神は語られている「もうかたくなであってはならない」と(申命記10:12-16)。この言葉はあなた方にも語られている。神の救い=安息はまだ約束されているのだ。
―ヘブル4:8-9「もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです」。
・しかし、地上のカナンは本当の約束の地ではなかった。民はまたも罪を犯し、地を追われてしまった。そのため、神は私たちに新しい約束(キリスト)を与えてくださった。今度こそこの約束から脱落してはいけない。
―ヘブル4:11「だから、私たちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」。