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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年2月17日祈祷会(エゼキエル10章、主の栄光が神殿を去る)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.主の栄光がエルサレムを去った

・エゼキエルは幻の内にエルサレム神殿に連れ行かれ、そこで偶像の神々を拝む人々を見た。彼らは主が戒めのためにバビロンを用いられたことを悟らず、「主はこの地を見捨てられた」として、他の神々に頼っていた。主は彼らを滅ぼすと宣言され(8章)、その裁きが始まった(9章)。その中でエゼキエルはエルサレムが火によって焼かれる幻を見る。
−エゼキエル10:1-2「私が見ていると、ケルビムの頭上の大空の上に、サファイアの石のようで、形は王座のように見えるものがあるではないか。それはケルビムの上に見えた。主は亜麻布をまとった者に向かって言われた『ケルビムの下の回転するものの間に入れ。そして、ケルビムの間にある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らせ』と。彼は、私の目の前で入って行った」。
・前587年にバビロン軍が侵入した時、彼らはエルサレムを火で焼き払った。やがて起きることを、エゼキエルは今、幻として見せられている。
−列王記25:8-9「第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った」。
・ケルビムに曳かれた主の戦車がエルサレム神殿から動き出した。主の栄光が神殿を去ろうとしている。
−エゼキエル10:4-18「主の栄光はケルビムの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、庭は主の栄光の輝きで満たされた・・・主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、私の目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった」。
・主の栄光が神殿を去る。主がエルサレムを見捨てられた。イスラエルの人々にとって、神の不在(沈黙)こそ最大の裁きであった。詩編には「なぜあなたは沈黙されるのか、なぜ御顔を隠されるのか」という悲痛な叫びに満ちている。
-詩編22:2-3「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。私の神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。

2.破壊の傷をいやすもの

・主の栄光が神殿を去った。しかし主の栄光は遠いバビロンのエゼキエルの所に来られた。エルサレムは棄てられるが、主はイスラエルを見捨てず、捕囚の民を通して働かれる。エレミヤが預言した通りとなった。
-エレミヤ24:1-9「主の神殿の前に、いちじくを盛った二つの籠が置いてあった・・・一つの籠には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた・・・イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、私はこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない・・・ 主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする」。
・国家が滅んでも国民が生きていれば国家はまた再建できる。しかし国民が滅ぶ時、国家は復興する基礎を失くしてしまう。ユダ王国は滅ぼされた、しかしそれは新しいユダを造るための裁きである。他方、アッシリアに滅ぼされた北イスラエルは歴史の中に消滅してしまった。国民が滅んだからだ。
-列王記17:23-24「主はついに・・・イスラエルを御前から退けられた。イスラエルはその土地からアッシリアに移され、今日に至っている。アッシリアの王はバビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れて来て、イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とした。この人々がサマリアを占拠し、その町々に住むことになった」。
・他方ユダの人々はバビロンで生き残った。そしてエレミヤやエゼキエル、第二イザヤ等の励ましを通して生きる神に出会った。ユダは滅びを通して信仰の民に変えられて行った。
-エレミヤ31:33「しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。
・矢内原忠雄は戦後東大教授に復帰すると、精力的に国民啓蒙活動を開始する。その中で「日本の傷を癒すもの」と題する講演をした。矢内原は言う「日本はアメリカに負けたのではない。日本は神によって滅んだ。他国への不義(侵略)と神への不義(天皇を神とする偶像礼拝)が裁かれた。その滅んだ日本を癒すものは神以外にない。神に帰る以外に日本の復興はない」。まさに日本は国を滅ぼされ、アメリカの管理下で捕囚とされた。捕囚の地で日本は何を学んだのか。戦後廃止された紀元節が建国記念日として復活したのは昭和42年だった。日本はまた天皇を神とする偶像礼拝の国に戻ったのだろうか。

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