前回に引き続き、詩編119編をワウ(41節〜)からヨード(〜80節)までを学んでいく。
1.ワフ(41〜48節)
・詩人は迫害の中にある。権力者は詩人を痛めつけ、棄教を迫る。その中で詩人は真実を語る力を与え給えと祈る。
-詩編119:41-44「主よ、あなたの慈しみと救いが、仰せのとおり、私を訪れますように。私を辱めた者に答えさせてください。私は御言葉に依り頼んでいます。真実を私の口から奪わないでください。あなたの裁きを待ち望んでいます。私があなたの律法を守る者でありますように、常に、そしてとこしえに」。
・イスラエルがシリアの支配下にあった時(前2世紀)、シリア王アンティオコス・エピファーネスは自分の信じるギリシャの神々をユダヤに押し付け、ゼウス像を神殿に持込み、律法の書を火で焼かせ、安息日や割礼などの律法に従うことを禁じ、違反者は処刑した。この迫害の中で励ましとして書かれた書がダニエル書である。
-ダニエル11:31-33「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。契約に逆らう者を甘言によって棄教させるが、自分の神を知る民は確固として行動する。民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される」。
・詩人は迫害の中でも、「神の戒めを恥とはしない」と言い切る。「私は福音を恥とはしない」(ローマ1:16)と言い切ったパウロに通じる心情がある。
-詩編119:45-48「広々としたところを行き来させてください。あなたの命令を尋ね求めています。私は王たちの前であなたの定めを告げ、決して恥とすることはないでしょう。私はあなたの戒めを愛し、それを楽しみとします。私はあなたの戒めを愛し、それに向かって手を高く上げます。私はあなたの掟を歌います」。
2.ザイン(49節〜56節)
・神の御言葉は試練の日々における希望である。神に逆らう者、傲慢な者は神の戒めを嘲笑い、それを守ろうとする私を見下しても、私はあなたの律法から離れないと詩人は歌う。
-詩編119:49-53「あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。あなたはそれを待ち望ませておられます。あなたの仰せは私に命を得させるでしょう。苦しみの中でもそれに力づけられます。傲慢な者は私を甚だしく見下しますが、私はあなたの律法から離れません。あなたの裁きはとこしえに堪えることを思い、主よ、私は力づけられます。神に逆らう者に対する燃える怒りが、私を捕えています。彼らはあなたの律法を捨て去る者です」。
・傲慢な者、神に逆らう者とは、神の選民とされ、神の律法を与えられた人々だ。彼らは選ばれ、恵みを与えられながら、それを信じようとはせず、応答しようとはしない。そのような者に対する神の怒りは大きい。
-アモス3:1-2「イスラエルの人々よ、主がお前たちに告げられた言葉を聞け。私がエジプトの地から導き上った全部族に対して、地上の全部族の中から私が選んだのはお前たちだけだ。それゆえ私はお前たちをすべての罪のゆえに罰する」。
・この世は私たちの仮の宿、私たちは約束の地を目指して歩む寄留者に過ぎない。私たちは神の憐れみにより、今ここに生かされている。「だから主よ、私はあなたの戒めに従って生きます」と詩人は歌う。
-詩編119:54-56「この仮の宿にあって、あなたの掟を私の歌とします。主よ、夜ともなれば御名を唱え、あなたの律法を守ります。あなたの命令に従うこと、それだけが、私のものです」。
3.ヘト(57節〜64節)
・詩人は悪しき者に取り囲まれ、彼らは詩人を罠にかけ、からみとろうとする。その中で詩人は「主よ、あなたこそわが嗣業、私に与えられた宝です」と歌う。嗣業=約束の地で与えられた土地、私たちの生きる基盤を指す。
-詩編119:57-61「主は私に与えられた分(嗣業)です。御言葉を守ることを約束します。御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます。仰せのとおり、私を憐れんでください。私は自分の道を思い返し、立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。私はためらうことなく、速やかにあなたの戒めを守ります。神に逆らう者の縄が私を絡めとろうとしますが、私はあなたの律法を決して忘れません」。
・人は何を人生の基盤、礎にするのだろうか。自分の能力か、教育か、財産か、評判か。「私は主よ、あなたを求めます。あなたこそ私の礎、嗣業です。あなたの与えられたこの地は慈しみに満ちています」と詩人は賛美する。
-詩編119:62-64「夜半に起きて、あなたの正しい裁きに感謝をささげます。あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人、私はこのような人の友となります。主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟を私に教えてください」。
4.テト(65節〜72節)
・こうして119:71の有名な言葉が導かれる。この言葉は多くの苦しめる魂を慰めてきた。
-詩編119:71(口語訳)「苦しみにあったことは私に良い事です。これによって私はあなたの掟を学ぶことができました」。
・苦難は詩人を正しい道に導くための教師であった。詩人は道に迷い、苦しみに喘ぎ、その中で主を呼び求めた。
-詩編119:65-67「主よ、あなたの御言葉のとおり、あなたの僕に恵み深くお計らいください。確かな判断力と知識をもつように私を教えてください。私はあなたの戒めを信じています。私は迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください」。
・病まなければ分からない真実、苦しんで知る主の愛がある。「病まなければ」という詩を書いた河野進は、らい病者のために生涯を捧げた牧師だ。彼は病に苦しむ人々の中に、強い信仰を見た。
−河野進・病まなければ「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ、信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聞き得ない御言葉がある。病まなければ、近づき得ない聖所がある。病まなければ、仰ぎ得ない御顔がある。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」。
・人は苦しみの中で神に出会う。ヨブが体験したこともそうだった。
-ヨブ記36:15-16「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えてくださるのだ」。
5.ヨード(73節〜80節)
・苦難は人を救うために与えられる。しかし苦難は神の支え無しには人を滅ぼすものにもなりかねない。苦難を神からの試練として受け入れ、神の憐れみを求める時のみ、苦難は人を完成させる愛の業となる。苦難が両刃の刃であることをパウロも認識していた。それ故に彼は苦難あるいは悲しみには、「神の御心にかなった悲しみ」と「世の悲しみ」があることを承知していた。別の苦難ではなく、同じ苦難が人を生かしもし、殺しもするのだ。
-?コリント7:8-10「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、私たちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。
・だから私たちは苦難の中で神の支えを求める。支え無しに、私たちは苦難を耐えることができないからだ。
-詩編119:75-77「主よ、あなたの裁きが正しいことを私は知っています。私を苦しめられたのはあなたのまことのゆえです。あなたの慈しみをもって私を力づけてください、あなたの僕への仰せのとおりに。御憐れみが私に届き、命を得させてくださいますように。あなたの律法は私の楽しみです」。
・そして神の憐れみによって慰められた者は、苦難にあえぐ他者のために働く者となる。
-?コリント1:4-6「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。私たちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、私たちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたが私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」。