江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年9月28日祈祷会(詩編115篇、神と偶像)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.「お前たちの神はどこにいるのか」と嘲笑されるイスラエル

・詩編115編は捕囚帰還後の困難な時期に、「お前たちの神はどこにいるのか」と嘲笑する異邦人に対して、「私たちの神は天に」と答える詩である。イスラエルは捕囚から帰還したが、神殿再建もままならず、エルサレムの城壁修復もはかどらなかった。周囲の異邦人はイスラエル人の困窮を見てあざ笑った「お前たちの神はどこにいるのか」と。エルサレム城壁の再建をしたネヘミヤたちも敵の妨害と嘲笑の中で工事をしている。
−ネヘミヤ2:19-20「ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは、それを聞いて私たちを嘲笑い、さげすみ、こう言った『お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか』。そこで私は反論した『天にいます神御自ら、私たちにこの工事を成功させてくださる。その僕である私たちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない』」。
・詩人は異邦人の嘲笑に対して、「私たちの神は天におられる」と答える。ネヘミヤが答えたようにである。
−詩編115:1-3「私たちではなく、主よ、私たちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって。なぜ国々は言うのか『彼らの神はどこにいる』と。私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる」。
・個人の勢いが衰える時、その信じる神を嘲笑するのが人間の常である。イエスも十字架上で嘲笑された(マタイ27:43)。神はなぜご自身の民を救われず、嘲笑に任せられるのか。ある人は言う「神の能力の欠如だ」。信仰者は答える「神がより偉大なことをされるためだ」と。
−イザヤ53:3-4「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」。

2.「私たちの神は天に」と答えるイスラエル

・詩人は異邦人に反論する「お前たちの神は偶像の神、人の手で造られたもの、口があっても話せず、耳があっても聞こえず、手があってもつかめず、足があっても歩けないではないか」と。
−詩編115:4-8「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」。
・私たちの神はそのような神ではない。神は苦しむものの叫びを聞き、行動される。この神により頼め。
−詩編115:9-11「イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。 主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾」。
・主は私たちを心に留め、私たちを祝福して下さる。この方に祈れ。
−詩編115:12-13「主よ、私たちを御心に留め、祝福してください。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福してください。主を畏れる人を祝福し、大きな人も小さな人も祝福してください」。
・14節から祭司の祝祷が始まる。この詩篇は神殿で歌われた応答歌であろう。
−詩編115:14-15「主があなたたちの数を増してくださるように、あなたたちの数を、そして子らの数を。天地の造り主、主が、あなたたちを祝福してくださるように」。
・旧約の人々は、神は天にいまし、人は地に置かれ、死後に行く陰府の世界は神との交わりが断たれた所と考えていた。だから地上の生涯において神を知らねばならない。何故なら死後に神を知ることはできないのだから。
−詩編115:16-17「天は主のもの、地は人への賜物。主を賛美するのは死者ではない、沈黙の国へ去った人々ではない」。
・新約においても同じである。「あなたは信じるか」という問いかけに答えることを通して、私たちは死後のことを神に委ねて死んでいく。
−ヨハネ11:25-27「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』。マルタは言った『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております』」。
・日本人は仏像に惹かれる。興福寺・阿修羅像はその一つで、三つの悲しみに満ちた顔が多くの人を魅了している。
−阿修羅像は天平6年(734年)、光明皇后が造像した。藤原家出身の光明皇后は自分の子を天皇にするために自分の兄弟たちと争う。阿修羅像の三顔の内右側には皇位継承権を持つ大津皇子・長屋王等のライバルを打倒する顔であり、左側は甥である広嗣の乱や四兄弟の天然痘による死などの度重なる災害を見る苦悩の顔であり、正面は懺悔して仏に縋り、悲田院や施薬院を設立して一門の安寧を願う姿だと言われる。人は罪を犯さざるを得ないが、その罪を贖う存在を持たない人々は偶像に頼るしかない。しかし、いくら懺悔の思いを込めて偶像を造り、それを拝んだとしても罪の赦しは来ないのではないか。

*詩編115編参考資料:聖書に見る死後の世界観(聖書思想辞典から)

1.旧約聖書

・死者は「もういない」(詩39:14 →ヨブ7:8 ヨブ7:21)。死者はもはや存在していないということが、死が人間に与える第一の印象である。生きている者は、死後の世界をとらえることができないからである。しかし、人間は死によって完全に無に帰するのではない。これが一般の原始的な考え方であり、旧約聖書も長い間これを踏襲している。体は地下の穴に横たえられても、死者のなにものかが、影のようなものが陰府 (ヘ:šeôl)に生き残ると考えられた。ただし、陰府に関する概念はきわめてばくぜんとしており、「滅びの穴」(詩40:3)・「墓穴の底」(イザ14:15)・「沈黙の国」(詩115:17)・「滅びの国」(詩88:12)・「忘却の地」(詩88:13 「闇{やみ}」(ヨブ17:13)などの言葉で表現されている。そこではすべての死者が、たといその屈辱には程度の差があるとはいえ(エゼ32:17-32)、ひとしく悲惨な運命のもとにおかれている(ヨブ3:13-19 イザ14:9-10)。
・彼らは、「塵」(ヨブ17:16 詩22:16 詩30:10)と「蛆」(イザ14:11 ヨブ17:14)にわたされている。彼らの生は、もはや眠りにすぎない(詩13:4 ダニ12:2)。もはや希望も、神の認識も、不思議なみ業の体験も、神への賛美もないからである(詩6:6 詩30:10 詩88:12-13 詩115:7 イザ38:18)。「死人のうちに放たれて墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています」(詩88:6)という訴えまで神に向かってなされる。そしてひとたび陰府の門をくぐれば(ヨブ38:17 →知16:13)、ふたたび帰ることはない(ヨブ10:21-22)。
・このようにイスラエル人は、かつては、人間が先祖の列に加わるべき日に(創49:29)、死は人間を以上のようなさくばくとした世界に連れ去るものとしか考えることができなかった。このような考え方は、現代でもまだ多くの人々がもち続けている人類共通の、ごく自然的な来世観が具体的に表われたものともいえよう。イスラエル人がかなりのちまでこのような通俗的な考え方を保持していたのは、彼らが、エジプトの宗教やギリシアのイデア論的な思考とは反対に、架空の不死の世界を夢みて現世の生活を蔑視するようなことを拒んだ徴とも考えられる。実際には、啓示がその独自の手段によって死後の世界の神秘を照らすのを待っていたのである。

2.新約聖書

・キリストが人間となったのは、ただ罪びとなる人間と連帯関係にはいり、人間の死を受容するためだけではなかった。彼は、新しい人類の頭なる第二のアダムであったから(?コリ15:45 ロマ5:14)、その十字架上の死には、全人類が包含されていたといえる。したがって彼の死において「すべての人も死んだ」(?コリ5:14)のである。彼の死は、洗礼において現われ、人間は洗礼によって十字架上のキリストと結ばれる。すなわち「キリストの死にあずかるために洗礼」(ロマ6:3)を受けて、「彼と共に葬られ」(ロマ6:4)彼の死にあやかるものとされる(ロマ6:5 フィリ3:10)。それゆえ、信仰者はいまや“死んだもの”であり、その命は、キリストとともに神のうちに隠されている(コロ3:3)。彼らは、地上に“死”の支配を映しだすいっさいの事柄に、つまり「罪」(ロマ6:11)・「古い自分」(ロマ6:6)・「肉」(ガラ5:24)・「罪の体」(ロマ6:6 →コロ2:11)・「律法」(ガラ2:19)・「世を支配する諸霊」(コロ2:20)などに死ぬ。
・このようにキリストとともに死ぬことは、実際には“死”そのものに死ぬことを意味する。信仰者は、罪の奴隷であったときには死んでいたけれども(コロ2:13 →黙3:1)、いまや「死んだ行ない」(ヘブ6:1 ヘブ9:14)をやめて「死者の中から生き返った者」(ロマ6:13)となっているのである。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、死から命へと移っている」(ヨハ5:24)とか、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハ11:25)とイエスは言われた。彼を信じる者には、死はなんら恐るべきものではない。
・ここには、信仰の賭もある。これに反して、彼を信じない者は、自分の罪のうちに死ぬのであり(ヨハ8:21 ヨハ8:24)、こういう者にとってはキリストのかおりは、「死から死に至らせる香り」(?コリ2:16)にほかならない。人類が“死”と格闘するドラマは、このように、人間一人びとりの生活のなかでくり広げられる。その結末は、各自がキリストと福音に出会ったとき、いかなる選択をおこなうかにかかっている。それは、ある人々にとっては「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(ヨハ8:51)というイエスの言葉に基づき永遠の命であるが、他の人々にとっては恐るべき“第二の死”である(黙2:11 黙20:14 黙21:8)。
・旧約時代に現われた人間の不死と復活への希望は、いまやキリストの奥義のなかに堅固な基礎を見いだして不動のものとなる。キリストの死との一致は、信仰者を現実に新しい命を生きるものとするだけでなく、「キリストを死者の中から復活させた方は、死ぬはずの体をも生かしてくださる」(ロマ8:11)という確信を植えつけるからである。復活のとき信仰者は、「もはや死のない」(黙21:4)新しい世界にはいるであろう。

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