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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年5月19日祈祷会(エゼキエル23章、淫行のもたらすもの)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.サマリアとエルサレムの淫行

・エゼキエル23章ではサマリアとエルサレムの主への不誠実が、不貞の妻(淫行の姉妹)として寓話化されて描かれる。エゼキエルは16章でもサマリアとエルサレムを淫乱の姉妹に例えて告発している。
−エゼキエル23:1-4「人の子よ、かつて二人の女性がいた。彼女たちは同じ母の娘であった。彼女たちはエジプトで淫行を行った・・・その地で、彼女たちの乳房は握られ、処女の乳首は摘まれた。彼女たちの名は、姉はオホラ、妹はオホリバといった。彼女たちは私のものとなり、息子、娘たちを産んだ。彼女たちの名前であるオホラはサマリア、オホリバはエルサレムのことである」。
・淫行とは具体的には主に背いて異国の神々を拝むことである。古代において大国の支配下に入り、隷属することは、その国の宗教を受け入れることであった。その宗教的な混淆が「姦淫」と表現される。北イスラエルはアッシリアと結ぶことによってその偶像神を受け入れ、主を裏切った。オホラ=天幕の女、神殿娼婦の別名である。
−エゼキエル23:5-10「オホラは私のもとにいながら、姦淫を行い、その愛人である戦士アッシリア人に欲情を抱いた。それは紫の衣を着た高官、知事、長官という皆、好ましい男たち、馬に乗る騎士たちであった。彼女はこの者どもと姦淫を行った・・・それゆえ、私は彼女をその愛人の手に、彼女が欲情を抱いたアッシリアの人々の手に渡した。彼らは彼女の裸をあらわにし、彼女の息子、娘たちを奪い、ついに彼女を剣で殺した」。
・北イスラエルは前721年にアッシリアに滅ぼされた。それを見ていたにも関わらず、南ユダも同じことをした。ユダは当初はアッシリアになびき、その後はバビロニヤに仕え、やがてはバビロニヤを裏切ってエジプトのものとなった。このような振る舞いは娼婦の振る舞い(オホリバ=自分の中に天幕を持つ娼婦)ではないかとエゼキエルは告発する。
−エゼキエル23:11-19「妹オホリバはこれを見たが、彼女の欲情は姉よりも激しく、その淫行は姉よりもひどかった。彼女はアッシリアの人々に欲情を抱いた・・・彼女は淫行を更に加え、次には壁に浮き彫りされた人々、朱色に描かれたカルデア人の像に目を留めた・・・彼女が彼らの有様に目を留めると欲情を抱き、使者をカルデアの彼らのもとに遣わした。そこで、バビロンの人々は愛の床を共にするために彼女のもとに来り、淫行をもって彼女を汚した・・・やがてその心は彼らから離れた。彼女がこれ見よがしに姦淫を行い、裸をあらわにしたので、私の心は、姉から離れたように彼女からも離れた。彼女は、かつてエジプトの地で淫行を行った若いころを思い起こして、淫行を重ねた」。

2.淫行のもたらすもの

・夫婦関係の本質は信頼であり、そのためには双方の誠実が必要である。しかしユダは夫である主を裏切り、アッシリア、バビロニヤ、エジプトと淫行を重ねた。このような女がどうなるのか、彼女は姦淫を重ねた女として処罰されるだろうとエゼキエルは預言する。*「鼻と耳をそぎ取る」とは姦淫罪に対するメソポタミヤの刑罰である。
−エゼキエル23:22-26「それゆえ、オホリバよ。主なる神はこう言われる。私は、お前の心が離れた愛人どもを呼び起こし、お前に立ち向かわせ、彼らを周囲からお前のもとに来させる・・・彼らは、武装した戦車、車、軍勢をもってお前を攻め、大盾、小盾、兜をもってお前を取り囲む。私が裁きを彼らにゆだねたので、彼らは自分たちの裁きの仕方でお前を裁く。私は熱情をもってお前に立ち向かい、彼らは憤りをもってお前をあしらう。彼らはお前の鼻と耳をそぎ取り、残った者は剣に倒れる。彼らはお前の息子、娘たちを連れ去り、残った者は火で焼き尽くされる。彼らはお前の衣服をはぎ取り、美しい飾りを奪う。私はお前の不貞と、エジプトの地にいたとき以来の淫行をやめさせる」。
・かつては好ましく思えた異国の恋人たちの本質は残酷な兵士であった。彼らは女(ユダ)の息子や娘たちの殺害者となっていく。現在でも離婚した女性たちの再婚した夫(子供たちの義父)たちにより子供たちが虐待されていく現実がある。やむをえない離婚はあり得ようが、離婚は本来的には不幸である。私たちは結婚・離婚を信仰の問題として考える必要があろう。
−マタイ19:4-6「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。
・政治の世界では力が支配する。イスラエルが大国アッシリアやバビロンと対抗して、国家を存続させる事はできなかった。イスラエルの選択はやむをえなかったとも言える。しかしその選択が国を滅ぼした。政治の現実の中で、なお「歴史の真の支配者は神である」ことを信じることの意味をエゼキエルは迫る。アッシリアに抵抗したヒゼキヤの信仰は、社民党・非武装中立論と同じく非現実的なのだろうか。欧州の小国スイスの永世中立は不可能な選択なのだろうか。政治の世界で信仰を貫けと説くエゼキエルは世間知らずなのだろうか。
−列王記下19:5-7「ヒゼキヤ王の家臣たちがイザヤのもとに来ると、イザヤは言った『あなたたちの主君にこう言いなさい・・・あなたは、アッシリアの王の従者たちが私を冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、私は彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される』」。

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