1.エレミヤの嘆き
・ヨシア王の宗教改革に賛成したエレミヤは郷里アナトトの人々に命を狙われた。彼がエルサレムへの礼拝集中に賛成し、地方聖所を持つアナトトの利益を害したからだ。命を狙われたエレミヤは故郷の人々への報復を主に願い、主はそうしようと約束される。アナトトはバビロン軍侵攻の時に破壊されたと歴史は伝える。
−エレミヤ11:21-23「アナトトの人々はあなたの命をねらい、『主の名によって預言するな、我々の手にかかって死にたくなければ』と言う。それゆえ、万軍の主はこう言われる『見よ、私は彼らに罰を下す。若者らは剣の餌食となり、息子、娘らは飢えて死ぬ。ひとりも生き残る者はない。私はアナトトの人々に災いをくだす。それは報復の年だ』」。
・しかしエレミヤの気持ちは納まらない。良かれと思って行為したのに故郷の人々は何故理解しないのか、そもそもこの世では「悪が栄え、善人が虐げられている」現実がある。「この世に悪が存在するにもかかわらず、神は正しく正義である」と言いうるのか、後世の合理主義者により提示された神議論がここにある。
−エレミヤ12:1-2「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、私はあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く、腹ではあなたから遠いのです」。
・エレミヤは「悔い改めなければ主はお前たちを滅ぼされる」と預言してきた。しかし悪人が「神は我々を滅ぼされない」と嘯く中で、どのように預言を続けていったらよいのか、彼は悩む。
−エレミヤ12:3-4「主よ、あなたは私をご存じです。私を見て、あなたに対する私の心を、究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し、殺戮の日のために取り分けてください。いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が鳥や獣を絶やしてしまった。まことに、彼らは言う『神は我々の行く末を見てはおられない』と」。
・信仰は理屈ではない。私たちに言えることは、「すべてが明らかになる時がくる時まで待とう」ということだ。
−?コリント13:12「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、その時には・・・はっきり知ることになる」。
2.神の嘆き
・神はこのような愚かな問いには答えられず、逆にエレミヤに反問される「徒歩の者と競争して疲れるのであれば、どうして騎馬の者と争いえようか。裁きは始まったばかりであり、事態はこれから悪化する」。これから起こる出来事に比べれば、故郷の人々の裏切りが何ほどのものか。「元気を出せ、最悪期はまだ来ていない」。
−エレミヤ12:5-6「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら、どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら、ヨルダンの森林ではどうするのか。あなたの兄弟や父の家の人々、彼らでさえあなたを欺き、彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる」。
・私たちは自分の苦しみだけに囚われ、「自分は何と不幸か」と煩悶する。しかし周りを見渡すと、もっとひどい状況で苦しんでいる人も多い。苦しみの相対化が必要だ。自己の苦しみを相対化した時に、エレミヤに見えてきたのは、神の苦しみだ。エレミヤは故郷の人々に裏切られたが、神はご自分の民に裏切られているのだ。
−エレミヤ12:7「私は私の家を捨て、私の嗣業を見放し、私の愛するものを敵の手に渡した。私の嗣業は私に対して、森の中の獅子となり、私に向かってうなり声をあげる。私はそれを憎む」。
・神の嗣業と呼ばれたイスラエルは、やがて隣国のシリアやモアブ、アンモンという猛禽たちに狙われ、さらにはバビロンというハイエナに食われるだろう。その結果、約束の地は荒らされ、荒野となっていく。
−エレミヤ12:9「私の嗣業は私にとって、猛禽がその上を舞っている、ハイエナのねぐらなのだろうか。野の獣よ、集まって餌を襲え。多くの牧者が私のぶどう畑を滅ぼし、私の所有地を踏みにじった。私の喜びとする所有地を打ち捨てられた荒れ野とし、それを打ち捨てられて嘆く地とした。それは打ち捨てられて私の前にある」。
・神は愛する故に、イスラエルの罪を憎み、彼らを滅ぼされる。それは民をもう一度再生させるためだ。建てるために一旦壊す(エレミヤ1:10)。エレミヤはその滅びを預言する。
−エレミヤ12:12-13「荒れ野の裸の山に略奪する者が来る。主の剣はむさぼる、地の果てから果てまで。すべて肉なる者に平和はない。麦を蒔いても、刈り取るのは茨でしかない。力を使い果たしても、効果はない。彼らは収穫がなくてうろたえる、主の怒りと憤りのゆえに」。