江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年4月7日祈祷会(詩編42-43編、鹿が谷川の水を求めるように)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.追放された地での嘆きの歌

・最初に詩人は「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私の魂はあなたを慕いあえぎます」(新改訳42:1)と歌う。この歌はそのまま讃美歌(リビング・プレイズ69番「鹿のように」)となっている。
-リビング・プレイズ69番「鹿のように」:「谷川の流れを慕う 鹿のように、主よ わがたましい あなたを慕う、あなたこそ わがたて あなたこそ わが力、あなたこそ わがのぞみ われは 主を仰ぐ」
・しかし詩の背景はロマンチックなものではなく、深刻だ。悲嘆の言葉が繰り返し用いられ(「なぜうなだれるのか、私の魂よ」42:6,42:12,43:5)、叶わぬ願い「エルサレム神殿に戻ることができるのはいつか」が繰り返し歌われている(42:10,43:2)。この詩篇は何らかの理由でエルサレムを追放された祭司がエルサレムへの帰還を願う歌なのだ。
-詩篇42:2-3「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」。
・「涸れた谷に鹿が水を求めるように」、詩人は水の枯渇する夏の川床をさまよう鹿に自らの状況を重ね合わせている。彼は単純に神への憧れを歌っているのではなく、満たされない自己の思いを歌っている。旧約の信仰に生きる詩人にとってエルサレムこそ神のおられる場所、神殿こそ礼拝の場所なのだ。そのエルサレムに戻れない悲しみが主題だ。
−詩編42:4-5「昼も夜も、私の糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う『お前の神はどこにいる』と。私は魂を注ぎ出し、思い起こす、喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを」。
・それでも彼は崩れ落ちる自己の魂に語りかける「うなだれるな、私の魂よ、神を待ち望めと」。魂=ネフェシュ、息の意味である。人は神の霊を受けて生きるものになり、霊が取り去られると死ぬ(創世記2:7)。
-詩篇42:6「なぜうなだれるのか、私の魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、告白しよう『御顔こそ、私の救い』と」。
・前半で水の枯渇する夏の川床をさまよう鹿に自らの状況を重ね合わせた詩人は、後半では雨期に同じ場所を下り落ちる激流を自らの状況に重ね合わせる。容赦のない激流がヘルモン山からヨルダン渓谷に流れ落ちるように、詩人もまた失意の底に落とされた。おそらくはこのヘルモンとミザルの山のあたりが詩人の追放された地であるのだろう。
-詩篇42:7-8「私の神よ。私の魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から、あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて、深淵は深淵に呼ばわり、砕け散るあなたの波は私を越えて行く」。

2.苦難の中で会って下さる神

・「神は私をお忘れになったのか」、異教の地にある詩人は、敵のあざけりと失意の中で、激しく神を求める。
-詩篇42:10-11「私の岩、私の神に言おう『なぜ、私をお忘れになったのか。なぜ、私は敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか』。私を苦しめる者は私の骨を砕き、絶え間なく嘲って言う、『お前の神はどこにいる』と」。
・詩篇43編も42編に続く。両詩は一体の詩なのだ。詩人の嘆きは十字架で叫ばれたイエスの嘆きに通じる。
-詩篇43:1-2「神よ、あなたの裁きを望みます。私に代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者、よこしまな者から救ってください。あなたは私の神、私の砦。なぜ、私を見放されたのか。なぜ、私は敵に虐げられ、嘆きつつ行き来するのか。あなたの光とまことを遣わしてください」。
・詩人はエルサレムへの帰還を待ちわびる。彼にとって神とは聖なる山、シオン(エルサレム)におられる方だ。
-詩篇43:3-4「あなたの光とまことを遣わしてください。彼らは私を導き、聖なる山、あなたのいます所に、私を伴ってくれるでしょう。神の祭壇に私は近づき、私の神を喜び祝い、琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、私の神よ」。
・旧約の人々はエルサレムで神を礼拝した。私たちはイエスがサマリヤの女に言われた言葉「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:21)を知っている。しかし限界を持つ人間にはやはり特定の場所が必要だ。海外に長く暮した姉妹は告白する「主の兄弟姉妹との交わりはあっても御言葉に飢えた」。
-姉妹の信仰告白から「1996年に今の主人と結婚しました。彼は海外勤務が多く、最初の赴任場所は、中央アフリカ共和国というアフリカの奥地でした・・・それからケニアに2年、ガーナと、アフリカばかりの海外転勤についていきました。ケニアに住んでいた時は現地の教会に行き、信仰の友にも出会え、国籍や言葉が違っても同じ信仰を持っている幸いも体験しました。しかし、日本語ではない礼拝や説教では十分わからず、御言葉に飢えました。日本から礼拝テープを送ってもらい、乾いたスポンジが水を吸うように聞き入りました」。
・その中で詩人は自己を奮い立たせ、「なぜうなだれるのか、わが魂よ」と繰り返す。神は答えて下さるであろう。なぜなら私たちは失意の時こそ、神が一番近くにおられることを知るからだ(ヨブ36:15-16)。
-詩篇43:5「なぜうなだれるのか、私の魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、告白しよう『御顔こそ、私の救い』と。私の神よ」。

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