1.民のかたくなさ悩むエレミヤ
・エレミヤ記17章はエレミヤの預言断片が収録して編集されている。多くはBC597年後の民の退廃に関する預言だ。民はバビロニヤに占領され、指導者たちが捕囚されても悔い改めなかった。ダビデ王家も神殿も残されたからだ。悔い改めない民にはさらなる災いが与えられる。エレミヤは言う「神の地をけがしたゆえに、神の地から追放されると」。
-エレミヤ17:1-4「ユダの罪は心の板に、祭壇の角に鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて、子孫に銘記させるものとなる。それらは彼らの祭壇であり、アシェラ像である。それらは、どの緑の木の下にも、高い丘、野の山の上にもある。野から山に登る者よ。私はお前の富と宝を、お前の聖なる高台での罪のゆえに至るところで、敵が奪うにまかせる。私が継がせた嗣業をお前は失う。また、お前を敵の奴隷とし、お前の知らない国に行かせる」。
・主は従う者には豊かな祝福を、そうでない者には不毛の地を与えられる。悔い改めない者への報酬は不毛である。アフリカでは砂漠化が進み、干ばつと飢餓が繰り返されている。これも神の与える警告なのであろうか。
-エレミヤ17:5-8「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」。
・アフリカの砂漠化は、人口増加に伴う過放牧、過耕作、森林の過伐採の故と言われる。原因の多くは人為的なものだ。国連は1996年「砂漠化防止条約」を提唱した。ペシャワール会の中村哲医師は黙々とアフガン砂漠の緑化のために働く。
-エレミヤ17:13「イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は、地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ」。
2.エレミヤの告白
・17:14-18にはエレミヤ告白の断片が挿入されている。エレミヤは主の徹底的な裁きを預言し、預言通りBC597年にバビロニヤ軍が来た。しかし彼らは新しい王を立て、朝貢を約束させると、神殿や王宮を破壊せず戻る。人々は破滅などなかったではないかとエレミヤを嘲笑した。
-エレミヤ17:14-16「主よ、あなたがいやしてくださるなら、私はいやされます。あなたが救ってくださるなら、私は救われます。あなたをこそ、私はたたえます。御覧ください。彼らは私に言います『主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい』と。私は、災いが速やかに来るよう、あなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません。あなたはよくご存じです。私の唇から出たことはあなたの御前にあります」。
・その嘲笑に対してエレミヤは報復を願い出る「どうか彼らに真の災いをお与えください」と。この願いはやがてかなえられる。反旗を翻したゼデキヤ王にバビロニヤ軍は再度押し寄せ、王を殺し、神殿と王宮を焼き払い、多くのものを捕虜としてバビロンに連れ去った。
-エレミヤ17:17-18「私を滅ぼす者とならないでください。災いの日に、あなたこそわが避け所です。私を迫害する者が辱めを受け、私は辱めを受けないようにしてください。彼らを恐れさせ、私を恐れさせないでください。災いの日を彼らに臨ませ、彼らをどこまでも打ち砕いてください」。
・苦難は神から与えられる。その苦難の意味を正しく受け止めない者には最終的な裁きが与えられるだろう。もっとも悲惨な苦難は、神の言葉に対する人間の強情さと無責任の結果なのである。
-エレミヤ28:1-14「ユダの王ゼデキヤの治世の初め・・・アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前で私に言った 『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私はバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに・・・バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、私はこの場所へ連れ帰る』・・・主の言葉がエレミヤに臨んだ『行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。私は野の獣まで彼に与えた』」。
・ユダ滅亡後、捕囚地においては安息日と割礼が民族のしるしとして守られた。そうしなければ民族が消滅してしまうからだ。24-25節は、安息日を守っていけば、主は再び、ダビデ王家を再建されるとの捕囚民の期待を示している。
-エレミヤ17:24-25「主は言われる。もし、あなたたちが私に聞き従い、安息日にこの都の門から荷を持ち込まず、安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば、ダビデの王座に座る王たち、高官たち、すなわち車や馬に乗る王や高官、ユダの人々、エルサレムの住民が、常にこの都の門から入り、この都には、とこしえに人が住むであろう」。
・安息日を守るとは、与えられている時間を自分のために用い尽さないということだ。私たちの教会はかつて人間関係の争いにより、多くの人が去って行った。そのことを学んだ私たちは、信仰上の立場の違いはあっても共に礼拝を守ることを大事にしている。裁きで砕かれることによって、人は何が大事かを学んでいく。