1.失望し落胆する民への預言者の言葉
・紀元前538年、ペルシャ王キュロスはエルサレム神殿再建を発令し、捕囚民はエルサレムに戻った。彼らは「主がシオンをエデンの園にして下さる」との預言に励まされて戻ったが(イザヤ51:3)、現実のエルサレムは荒廃しており、旱魃や不作により、帰還民は食うのが精一杯の生活に追い込まれ、神殿再建工事も挫折した。その中で、第二イザヤの流れを汲む第三イザヤが、落胆し、希望をなくしている民に回復の預言を語る。それがイザヤ61章だ。
-イザヤ61:1「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。
・「主は私に油を注ぎ」、「主なる神の霊が私をとらえた」、預言者は苦しみもだえる帰還民に、福音を語るように召されたとの自覚を持つ。貧しい人=抑圧されている人、捕らわれ人=負債を返せないために獄につながれている人、その人々に自分は解放の福音を語るのだと預言者は言う。
-イザヤ61:2-3「主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」。
・主の恵みの年=50年ごとに奴隷が解放されるヨベルの年(レビ記25:8-10)、主の裁きの日=異邦人の裁きはユダヤ人の解放になる(ヨエル2:1)。経済的困窮にある人々のために豊かさが、神殿建設を妨害する人々に裁きが与えられると預言者は言う。その結果、廃墟となったエルサレムは再び神の都と呼ばれるであろうと。
-イザヤ61:4「彼らはとこしえの廃虚を建て直し、古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする」。
・かつてイスラエルは異邦人に国土を蹂躙される苦しみを受けたが、その異邦人たちがあなたたちの羊を飼い、畑を耕すようになるだろうと預言される。
-イザヤ61:5「他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い、異邦の人々があなたたちの畑を耕し、ぶどう畑の手入れをする」。
2.悲しみが喜びに
・それはイスラエルが本来の立場に、すなわち「主の祭司」として立たされるからだと預言者は言う。その時、二倍の恥を受けたあなた方は二倍の栄光を受けると。
-イザヤ61:6-7「あなたたちは主の祭司と呼ばれ、私たちの神に仕える者とされ、国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする。あなたたちは二倍の恥を受け、嘲りが彼らの分だと言われたから、その地で二倍のものを継ぎ、永遠の喜びを受ける」。
・「かつて異邦人から強奪されたあなた方が、私と永久の契約を結び、祝福された民族になる」と預言者は言う。
-イザヤ61:8-9「主なる私は正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。彼らの一族は国々に知られ、子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう。これこそ、主の祝福を受けた一族である、と」。
・祭司の役割は燔祭を捧げて民のために祈り、どう生きるべきかの律法を教えることである。それは聖なる職務であり、その職務にふさわしくなるために、あなた方はこの試練を受けたのだと預言者は言う。
-レビ記20:26「あなたたちは私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。私はあなたたちを私のものとするため諸国の民から区別したのである」。
・10節から預言者の祝祷が始まる。かつて泣いた者たちが喜ぶ者に変えられて行く。福音を聞いた者は喜びに満たされる。
-イザヤ61:10-11「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る。主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」。
・帰還民の置かれた状況は決して喜ばしいものではない。「光を望んだのに闇、輝きを望んだのに暗黒」(59:9)の状況であった。その中で喜んでいけとイザヤは言い、イエスも言われる。信仰者は闇の中でも希望を語ることが出来る。
-ルカ4:16-21「イエスは・・・安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった 『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』・・・イエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。