1.主の僕の歌
・イザヤ49章以降はバビロンから解放された民が祖国に帰還する物語である。前539年バビロン帝国はペルシャ王キュロスにより滅ぼされ、キュロスは囚われの民の祖国帰還を発令する。その指導者として“主の僕”が立てられる。
−イザヤ49:1-3「島々よ、私に聞け、遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にある私を呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた。私の口を鋭い剣として御手の陰に置き、私を尖らせた矢として矢筒の中に隠して、私に言われた。あなたは私の僕、イスラエル、あなたによって私の輝きは現れる、と」。
・“主の僕”は神の言葉(口)を与えられた。預言者自身が民をエルサレムに導く指導者として立てられた。彼はかつてキュロスに期待し、彼を「主が油注がれた者」と見たが、現実のキュロスは単なる征服者、新しい圧制者であったことが明らかになる。彼は自分の過ちを認めるが、それでも主は自分を僕として立てて下さっていると感じている。
−イザヤ49:4「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。
・悔い改める預言者に主は新しい使命を与える。民を故郷に連れ戻る指導者としての使命である。
−イザヤ49:5-6「ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために母の胎にあった私を御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」。
・預言者の使命は民を連れ戻るだけではなく、主の贖いを証し、主を知らない諸国の民に福音を伝えることだと言われる。贖われた者は他者の贖いの使命を与えられる。ルカはイザヤ49:6を異邦人伝道への励ましと理解している。
-使徒言行録13:46-47「パウロとバルナバは勇敢に語った『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く。主は私たちにこう命じておられるからです『私は、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために』』。
・最初の帰還民はエホヤキン王の第四子セシバザルに率いられて故国に戻った(エズラ1:5−11)。彼はエルサレム神殿の基礎をすえたが、工事は中断され、セシバザルは歴史から消える。ペルシャによって処刑されたと見られる。苦難の僕はおそらくセシバザルであり、彼が第二イザヤであった可能性は高い。祖国帰還は容易な業ではなかった。
-イザヤ49:7「イスラエルを贖う聖なる神、主は、人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主があなたを選ばれたのを見て」。
2.祖国へ
・歴史は人の運命を超えて進む。捕囚の民は解放の時を迎えた。その時を預言者は、「恵みの時」「救いの時」と歌う。
-イザヤ49:8-9「主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。私はあなたを形づくり、あなたを立てて民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」。
・パウロはかたくななコリントの民に対して、主の救いの業を無駄にするなと言って、この言葉を引用する。預言者や伝道者は常に人々の無理解や反感の中に置かれる。彼が頼りにするのは「神の言葉」だけだ。
-?コリント6:1-4「私たちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。私たちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」。
・最初の帰還民が故国に向かう。その道のりは数千キロの荒野を超える旅であったが、主が道を整えてくださったので民は障害もなく歩むことが出来た。福音書記者はこの帰還こそ、イエスのために主が道を整えてくださった業だと理解する(マルコ1:1-3)。
-イザヤ49:9-11「彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地は全て牧草地となる。彼らは飢えることなく渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる」。
・帰国民は喜び勇んでエルサレムを目指す。彼らは今、主の大いなる御業の中にいるからだ。
-イザヤ49:11-13「私はすべての山に道をひらき、広い道を高く通す。見よ、遠くから来る。見よ、人々が北から、西からまた、シニムの地から来る。天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」。
*補足 2002年2月10日説教(イザヤ49:1−9、恵みの時・救いの時)から
・今、私たちは月に一回、旧約聖書のイザヤ書を読んでいる。このイザヤ書は預言書である。預言とは、神が預言者を通して、特定の時に、特定の人々に語られた言葉である。後代の人々は、それを自分たちの置かれた状況の中で、自分たちに語られた言葉として聞く。私たちも、イスラエルが裁かれ、捕囚となり、やがて解放されていく様を、私たちの教会の歴史と重ね合わせながら、聞いていく。今、この教会は、苦難の時は終わり、解放の時にあると私たちは理解し、40章から始まるイザヤ書第二部を、この教会に与えられた言葉として聞き始めている。今日はイザヤ49章から言葉を聞く。
・イスラエルは何故、捕囚としての苦しみを味わったのか。イスラエルは神にそむくと言う罪を犯した。その罪は贖われなければならない。彼らは50年間苦しんだ。そして、苦しむことを通して、他者の苦しみを知るものに変えられていった。また、異国に捕らわれることを通して、救いが他の民族にも及ぶことを知らされた。故にイスラエルに使命が与えられる。「わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」(49:6b)。
・世界史の上では何の重要性も持たない小さな国の挫折と回復の歴史が旧約聖書としてまとめられ、その旧約聖書がやがて世界史を動かす影響をもつようになる。故に預言者は確信を持って言う。「人に侮られる者、民に忌み嫌われる者、司たちの僕」(49:7a)、人間的に見れば、戦争に破れて捕虜とされた民が帰還するに過ぎないイスラエルが、「諸々の王が立ち上がり、諸々の君が拝する」(49:7b)者となる。預言者は、神の救済の訪れを諸国民に宣べ伝える使命を抱いてエルサレムに帰るという確信にあふれている。
・この確信を私たちも持ちたい。私たちの教会は大きくもなく、立派でもないかも知れない。それ故に、苦しむ者の声を聞ける。私たちは、信仰に優れた者でないかも知れない。それ故に、信じることのできない人たちに福音を伝えることが出来る。イスラエルと同じく、私たちも主がいかに恵まれたかを証するために立たされ、そのために必要な苦しみを受けた。この苦しみを通して、教会が何故立てられているかを学んだ。今、解放の時を迎え、新しい使命を与えられる。「主は恵みの時に私に答え、救いの日に、私を助けられた」(49:8)ことを知る者こそ、福音の伝達者に相応しい。
・この教会も試練の中で、人が散らされて行った。しかし、神が再び、このところに神を賛美する人の群れを集められるとイザヤ書は教える。そして、いつの日か人々は言うであろう「この会堂は狭すぎる。賛美するためにもっと、広い教会堂を与えよ」と。その日は来る。その日が来るまで、多くの出来事があるであろう。また、その日がいつか私たちは知らない。バビロンの捕囚民が捕えられてから解放されるまで50年が必要だった。私たちはこの教会の回復に望みを置く。そして聖書は望みを置いても良いと私たちに告げる。