1.救いを求める者の祈り
・詩篇4編は3編と関連付けて読まれることが多い。3編はダビデが王位を追われた失意の中も、主は安らかな眠りを与えて下さったことを感謝する(3:6)。4編は不安や恐怖の中でも平和の内に眠ることの出来る幸いを歌う(4:9)。作者は人格を否定するような攻撃を敵から受けており、その中で主に救いを求めている。
-詩篇4:2-3「呼び求める私に答えてください、私の正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください。人の子らよ、いつまで私の名誉を辱めにさらすのか、むなしさを愛し、偽りを求めるのか」。
・“人の子”、ベネ・イーシュという言葉が用いられ、社会的地位のある者、富んでいる者を指す(一般的な“人の子”はベネ・アダーム)。作者は社会的に排除された、あるいは偽証等によって名誉が汚された状況に追い込まれたのであろう。その中で「主は共にいてくださり、自分の正しさを認めてくださる」と作者は叫ぶ。
-詩篇4:4「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ」。
・作者の置かれた具体的な苦難はわからない。彼は社会的な地位のある人、富める人々から侮辱を受け、ないがしろにされた。彼は富む人を「空しいものを求め、虚偽を追い求める者」とよんで、その悔い改めを求める。
-詩篇4:5-6「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め」。
・「おののいて罪を離れよ」、直訳では「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない」。その言葉をパウロはキリストにある新しい生き方の勧めとして、エペソ教会に書き送る。
-エペソ4:26「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」。
・「怒りを持ち越さない」、夜の間に覚える怒りや憤りも、次の日の朝にはなくなる経験を私たちもする。
-ヒルテイー(眠れぬ夜のために)「良い眠りの後では、事柄は全く違って見える。前の晩には巨人のようにのしかかっていた困難も、今は笑って済ますことが出来る」。
2.人から捨てられる時に見えてくる真実
・敵は言う「神の祝福はお前にない」と。その非難の中で、「主よあなたの御顔の光を向けてください」と作者は哀願する。作者は収穫の喜びに勝る祝福を与えてくださいと祈る。
-詩篇4:7-8「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、私たちに御顔の光を向けてください。人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを私の心にお与えください」。
・そして祝福を与えられた。主にある平安を与えられた者は不安や恐怖の中にあっても安らかに眠ることが出来る。安らかな眠りこそ、恵みの最大のものだ。眠ることの出来る人は苦しみから回復することが出来る。
−詩篇4:9「平和のうちに身を横たえ、私は眠ります。主よ、あなただけが、確かに、私をここに住まわせてくださるのです」。
・祈りに対する応答は外から示されることもあれば、心密かに響くこともある。応答がない場合も多いかもしれない。それでも人は祈りによって、神の大いなる権能の中に生かされていることを感じ、心の喜びと安らぎが与えられ、心身が癒されていく。癌の最大の特効薬は制癌剤でも放射線療法でもなく、“生きる意志”だと言われる。
−ピリピ4:6-7「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。
・無実であるのに断罪され、不当な非難をされることもある。それは単に悲しみ、苦しみをもたらすばかりではなく、それを通して見えてくる真理ももたらす。不条理な苦しみや悲しみもまた主の恵みなのだ。内村鑑三は1891年の第一高等中学校不敬事件で、その職を奪われ、全国民から国賊と罵られたばかりか、教会からも批判され、その上みずから重患の床に打ち倒されている間に、妻加寿子も急逝して、文字通り人生のどん底に投げ込まれた。その事件から2年後の1893年に内村は「基督信徒の慰め」を発表した。この出来事を通して、内村は従来の教育や評論から、聖書研究に打ち込むようになった。内村の真価は評論ではなくその聖書研究にある。
−基督信徒の慰め「余が国人に捨てられしより後は然らず。余の実業論は何の用かある。誰か奸賊の富国策を聴かんや。余の教育上の主義経験は何かある。誰か子弟を不忠の臣に委ぬるものあらんや。余は此土に在つて此土のものにあらず。此土に関する余の意見は地中に埋没せられて、余は目もなき口もなき無用人間となり果てたり。地に属するものが余の眼より隠されし時、初めて天のものが見え始まりぬ。人生終局の目的とは如何、罪人が其罪を洗ひ去るの途ありや、如何にして純清に達し得べきか、是等の問題は今は余の全心を奪ひ去れり」