江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年5月27日祈祷会(詩篇1編、幸いだ、その人は)

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1.詩篇全体に対する序詞としての第1編

・詩篇の内容は讃美と感謝・祈りと嘆きであるが、詩篇はイザヤ書と並んで新約聖書に最も多く引用されている。一例を上げれば、イエスの公生涯は詩篇で始まり(詩篇2:7)、詩篇の言葉で終わっている(詩篇22:2)。初代教会にとって聖書とは詩篇だった。新約をもう一度読み直すという視点でこれから詩篇を読んでいきたい。
-マルコ1:10-11「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた」。
-マルコ15:34「三時にイエスは大声で叫ばれた『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。
・詩篇1編は全体の序文であり、「幸いだ、その人は」で始まる。詩篇は祝福から始まる。教え=トーラー(戒め、律法)を毎日唱和し、それを守る人は幸いだと言われる。御言葉に生かされる生活の幸いが歌われる。
-詩篇1:1-2「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。
・主の教えに従う者の生活は「流れのほとりに植えられた木」のようであり、彼は豊かな水(御言葉)に養われて、多くの実を結ぶと祝福される。
-詩篇1:3「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば、実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。
・パレスチナでは水は貴重だ。流れとは用水路、木はなつめやしを指すのかも知れない。「流れのほとりに植えられた木」はエレミヤ17:7-8にあり、詩篇1編と構成が似ている。エレミヤ書を参考に造られたのではないか。
-エレミヤ17:7-8「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」。
・その一方で律法を守らない人、主の教えに逆らう者は災いだと言われる。詩篇編集者である作者は「邪悪な者が栄え、義人が苦しむ現実があることを知る」。しかし主はそのような現実を変えて下さるとの信仰がここにある。
-詩篇1:4-6「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされる籾殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていて下さる。神に逆らう者の道は滅びに至る」。

2.山上の祝福との対比の中で

・幸いだ(ヘブル語アシュレイ)はギリシャ語訳聖書(70人訳)では(マカリオス)となる。マカリオスは「山上の祝福」の冒頭の言葉だ。イエスは詩篇1編を念頭に置かれながら山上の祝福を述べられたのではないか。
-マタイ5:3-4「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。
・詩篇記者は、神はこの世の不条理を糾してくださると歌った。イエスはこの世では正しい者が悲しみ、悪しき者が栄える現実があることを見つめ、その現実を神が糾すために自分を派遣されたと宣言される。
-ルカ4:18-19「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
・律法を守ることの出来ない人々を、パリサイ人たちは、「アム・ハ・アレツ(地の民)」として排除した。しかし、イエスは律法を守る人が幸いなのではなく、福音を聞き、それを信じる人こそが幸いなのだと言われた。ここに旧約(行為の戒め)を継承しかつ超える新約(愛の戒め)がある。
-マタイ21:31-32「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。
・新約の視点から見れば、律法は廃すべきものであり、イエスによって福音の道が開けたと私たちは思う。しかし、イエスは律法を廃するためではなく、完成するために来たと言われる(マタイ5:17-18)。救いの条件としての律法ではなく、救われた恵み、応答として主の戒めを守っていくことこそ大事ではないか。
-ヤコブ2:14-17「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか・・・信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。

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